2009年12月7日 月曜日 明日は(太平洋戦争)「開戦記念日」ですが、今では忘れ去られています。

特別な意味はないのですが、いつかは以前作ったこの「私の履歴書」を作り直したいと思っていましたので、今回重い腰を上げて作り直します。



この写真は親父とおふくろの「金婚式(結婚50周年)」を記念したお祝いの席の様子です。
後の掛け軸「南無阿弥陀仏」は私が書いたもので、当時喜んでくれたのを覚えています。

「私の履歴書」には親父の人生が書かれています。
子どもの私が言うのも面映ゆい言い方ですが、親父は「大変な努力家」で、今この中で書かれているような話をしても実感が湧かないだろうと思います。
生前から、親父が「機会があったら読んでほしい」と言って、こつこつと書いていたのは知っています。
当時は全く興味がなく、むしろ反発ばかりしていましたが、私も「アラ還」となり、ちょっとは理解できるようになってきました。
面白くもなんともない話ですが、読んでもらえるなら親父も喜んでいると思いますので紹介します。

私の履歴書

はじめに

私が之を書き始めてから数年近くなる。が、勤務中とか余暇に書こうとすると、一寸書いては何日も又何カ月も書かなかったり・・・でなかなか進まない。
今回、50年ほどのサラリーマン生活から退き、ようやく暇が出来たのを機会に完成させる。然し、文章も拙く、句読点もあやふやで、後日人が読めば笑われるかもしれぬ。
だが、「学もなければ字もまずい」これを了解のうえで読むチャンスがあれば読んで、私の人生の一端でも知ってもらえれば幸甚である。

生い立ち

私は大正4年2月28日に生まれたらしい。父 専吉、母 かじ の七男。いわゆる末子(ばっし)である。が、私が知っているのは兄5人、姉2人だ。
父は百姓で、5〜6反の田の小作をしながらどうにかその日暮らしをしていたようだ。当時兵庫県飾磨郡水上村保城といっていた。
なにぶん、男5人女2人の子沢山の貧乏人の末子だから大切に扱ってもらったとは、とても言えない。
でも、物心がついた頃には長姉は市内山吹に嫁ぎ、長兄虎男も鍛冶職人で三木へ出稼ぎ、次兄朝吉も神戸(三菱造船所)へ出ているし、両親と男4人女1人だったと思う。
丁度物心がついた頃(3〜4歳だったろうか)、長姉の家で行雄(甥)が生まれるまで1〜2年いたようだ。
近所の男の子、女の子とままごと遊びをして過ごしたのをカスカに思い起こす。茲も静かな山村だったが、遠い昔を想い出すと懐かしい。
従って、成人した後も長姉を第二の母と思って過ごしてきた。然し、その姉ももう10年位になるのかナー 亡くなった。

小学生時代

次は小学時代だ。兵庫県飾磨郡水上尋常小学校といった。たしか、1〜2年生の頃だったと思う。比較的勉強が良く出来たのか、学期末に読方(国語)とか
習字の手本をもらって褒められたのをうっすら覚えている。昔はそんなこともあったのだ。当時、小学6年までを義務教育といい、男女共学だった。
その頃はまだ洋服はなく、皆(男女とも)、着物だった。足元もワラ草履だ。それが高学年になるにつれだんだん詰襟の服に半ズボン。足元も草履からゴム靴へと変わってきた。
6年生の時、副級長で胸に黄の房のついたリボンを付けていたのを覚えている。級長は赤のリボンだったと思う。
毎朝、級長が朝礼で整列させていたが、自分も時々級長と代わって整列させていたのを漠然と(おぼろげに)覚えている。
たしか、6年生になった時と思う。姫路師範卒の新任の渡辺逸次先生が赴任してきて、我々の組の担任になった。その頃は担任の先生が全科目を教えていた。
渡辺先生は私をよくかわいがってくれた。私も渡辺先生が好きだった。が、その渡辺先生も今生きているのかどうか、小学卒業以来一度も会ったことがない。
若し生きておられたら一度会いたいなーと思う。小学6年が終わると旧制中学へ4〜5名行った。私はとても中学など、親がやってくれる身分ではない。
従って、高等科へ。一方6年生で卒業して社会へ巣立っていった者も7〜8名いたようだ。昔は現在と違って勉強:勉強と社会も言わず、家でも言わず
まして我が家のように貧しい者は只、母親から仕事仕事、と仕事を与えられ、遊びたくても叱られるから仕事をしなければならない。
若し仕事をしなかったり、抜けて遊びに出たりしたら、夜中に帰ると物凄く叱られる。
仕事とは、畳の裏に縫い付ける裏菰(コモ)を編むのだ。学校から帰ると、平日なら1枚位だったろうか。日曜日は4枚か5枚と決められる。
で、土曜日の夜などは、薄暗い庭で明日の為に、たとえ半枚でも1枚でも編んで、翌日の日曜日は早く起きて仕事を片付けて遊ぶのだ。
政信兄も私と同様で、二人で競争して仕事を終わり、サー遊びに行こうと二人で家を飛び出す。
正月でも元日の式が終わると「仕事始めだ」と、午前中は仕事をさせられた。その菰(コモ)は1枚、6銭か7銭で売れる。
これが母の家計の助けの一端になるのだ。勉強など宿題があっても「夜にしたらよい」と振り向いてもくれない。

今から約90年前におやじが通った水上小学校の現在の様子です。

兄たちについて一寸述べる

長兄寅男、次兄朝吉については冒頭に記した。三兄駒吉(大東亜戦争でビルマで戦死)は、村に石本鍛冶屋というのがあり茲へ勤めていたが怠け者でよく仕事を休み
母も困り果てていた。一か月に15日も働けばいいほうで、従って給料を母に渡せるほど稼いでいたとは思われない。
よく出しても3円か5円ほど渡せば上等で、渡せぬ月もあったのではないかと思われる。
朝になっても起きてこないので、母が「駒吉駒吉、早よ起きな、又石本から呼びに来られるぞ」と言った口の下、「駒吉さん今日はどうや」と小使いが呼びに来る。
自分はもう一つまだ訳が分からぬから「駒吉さん(大勢の兄だから皆名前で呼んでいた)、石本から呼びに来とるぞ」
兄「頭が痛いから今日は休むと言っておいてくれ」で、その通り伝えて帰ってもらう。又2〜3日経っても起きない。今度は「腹が痛いと言ってくれ」式だ。
母が「駒吉、怠けんと仕事に行ってくれ」と再々言って困っていたのを思い出す。そして泣き言ばかり言って「困ったもんや」をよく聞いた。
自分は大きくなっても「あんな真似はすまい」小さいながらもよく思ったもんだ。

四兄 政吉
当時、政吉兄も村にある挽本という鍛冶屋に勤めていた。(挽本は)石本鍛冶屋で一人前になり、独立して鍛冶屋をしていた。
然し零細企業だし、横半の先手だから僅かの給料らしかった。彼(政吉兄)は真面目だったから、母にほとんど渡していたらしい。
が、大家族なる故、家計の潤いには微々たるものではなかったのではないかと思う。後に、野砲10連隊へ現役入隊する。

姉 あさえ
その頃、東洋紡績へ女子工員として勤めていた。村から近いので大勢勤めていた。女子なるため、嫁入り準備としていくらか貯蓄に回していたかも知れぬが
姉の働いた金は母が管理していて、家計の切り盛りに役立ったことと思う。その傍ら、白国で和栽の稽古もしていた。
以上のような有様で、それぞれの僅かな給料で何とか母が切り回していた。母はしっかりしていて、小さい我々も含め、全員を叱咤激励して
少しでも少しでもと始末始末で頼母子講(たのもしこう)に入ったりして貯蓄を考えていた。
このような有様だから、母が我々小学生までも、一銭でも金儲けになるよう仕事をさせていたのも、無理なかったのだろう。

高等小学校卒業(昭和4年3月26日)
以上のような毎日の連続で高等小学校を卒業した。成績は自分で言うのも面映ゆいが上級の方だった。特に国語は得意だった。
さて、卒業はしたものの、昭和4年頃も金融恐慌とやかましく叫ばれ、不況の時代だ。就職したいと思っても就職先がない。
大勢いる兄たちも斡旋してくれず放りっぱなしだ。母と菰(コモ)編みをしたり、父と一緒に田畑や山へ薪取りに行く日の連続だ。
何処かへ働きに行きたい・・・・級友たちはさっそく就職した者が相当いる。自分もアチコチ門をたたいたが全部断られた。「アー困ったナー」

悶々の日々
政信兄は高等小学校を卒えると大野町の尾上鉄工所へ就職していた。(誰に世話をしてもらったのか知らぬ。)
毎日田や畑や山仕事では収入にならず・・・・と言って、勤め口は見つからない。毎日毎日が悶々の日々だ。
時たま牛を連れて市川の河原で牛飼いをしながら泳ぐのが楽しみだった。従って泳ぐのは得意で、書き洩らしたが高等部の時、学校の遊泳で50丁に合格したほどだ。
ドブンと水に飛び込むとスウーッと浮いてきてスイスイと泳げる。現代の子で水泳ぎが出来ないのをよく聞くが、自分から考えると不思議なほどだ。
クロール(自由形)も習った。当時当村に大北友太郎という先輩がいた。彼は姫路師範学校の生徒で水泳の選手だった。
得意はバック(背泳)だが、クロール(自由形)もうまかった。寒くなりかけて水が冷たくなった頃でも一人で泳いで練習をしていた。
国体で明治神宮競技によく出場していたから之の練習だ。それで、我々が一緒に泳ぎに行くと「オイ、教えてやろう」と、クロールの基本からよく教えてくれた。
高二の夏、姫路師範の50メートルプールで小学校の大会があり、「出よ、出よ」と言うので当村の高橋政次君と共に水上小学校代表で出場した。
だが、負けたのは勿論である ハハハ・・・・・。この大北友太郎氏はその後病気で早く亡くなった。
閑話休題
さて、仕事はないか・・・・ 就職先は見つからぬか・・・・・・・。

恋 心
西中島から畑田秋子さんという子が小学校6年まで一緒だった。この子は女子の級長で、学科はよく出来、顔も美人?の方だったと思う。
家庭もよく、従って6年を卒業すると県立高女へ進学した。未だ女子の進学は少なかった。
小学時代は心易く「オイ畑田」「石野さん」と話していたのに、自分はこうして山で父と芝刈り。彼女はセーラー服で颯爽と女学校へ・・・
と思うと、なんだか自分自信が哀れで、情けなくて、淋しく劣等感に浸るとともに彼女が羨ましく恋しい。
之を恋心というのかどうか分からない。自分も思春期に入りつつあるのだろうか、ハハハ・・・・・・・アー無情。
早くどこかへ就職して、制服でも着て彼女と会ってみたい。ちょうどそのころ、「女給哀史」とか「籠の鳥」が流行していた。
「わたしゃカフェーに咲いている真白き花のスズランよ。恋しき貴方は大学の胸に五つの金ボタン・・・・」この歌を聴くと一層淋しくなる。

同窓会
そんなある日、小学校の同窓会の通知が来た。
出席してみると、就職した者は就職先の話をしたり、中学や師範へ進学した者は学校の制服で颯爽として雑談したり、女子はセーラーの子もあり着物の子もあり。
「石野、お前どないしとんや」  「地球の皮剥きや」と云う次第で恥ずかしく、情けなくて発言もあまりしたくない。
学生時代は組でも上級で、勉強も比較的よくできたのに、社会へ出て、今こうして皆と顔を合わすと一人取り残されたようで残念で、早く帰りたい。
浅井鷹夫君、彼は自分たちより一年先輩だが、先年師範を受けてツルリー・・・で、後1年留年して我々と一緒に学び、高3からようやく姫師に合格した。
その彼が師範の学生服で出席し、鼻高々としゃべっているのが癪に障る。未成年だから茶話会だが、その頃流行しかけた「影を慕いて」を得々と歌う。
まぼろしの〜影を慕いて雨に日に〜永久にやるせぬ我が想い・・・・皆、一斉に聴き入る。畑田秋子さんもジーッと聴いている。
悲しい 淋しい歌だ。  アー自分は一層淋しいと、一層寂寥感に浸る。

夕刊配達
丁度その頃、近所に田中亀次君(亀ちゃん)というのがいた。小学6年くらいで、毎日新聞の夕刊配達をしていた。
「政一さん、夕刊配達しないか」と誘ってくれた。高等小学校を終わって今更夕刊配達など恥ずかしいが、何でもいい、金儲けをしようと駅前の毎日新聞舎へ行く。
二木さんという人が居て、番頭だった(まだ若い人だった)。「石野君、なぜ就職せず夕刊の配達をするのか」「就職先がないので、せめて夕刊配達でもして金儲けがしたいんです。」
「そうか、では白国地区を配達している尾野畑君が辞めるからその後を引き継いでくれ。」というわけで、2〜3日見習いをして家を覚える。後は一人で配達する。
現在は夕刊といっても午後早くて昼刊だが、自分らの頃は夕方5時過ぎ、姫路駅着の列車で夕刊が届く。
配達人達が駅ホームまで出て待ち、列車が到着すると放り卸して駅の荷車に積み、テルハでこちらのホームへ送り、
改札までゴロゴロ、ゴロゴロと走り、毎日舎の車力に積み替え、御幸通りを走って毎日舎へ。
茲で各自自分の枚数を数え、急いで自転車や徒歩で受け持ち区域の配達に飛び出すのだ。亀ちゃんは西中島や保城を担当している。
自分は亀ちゃんとともに水上村の入り口まで飛ばし、白国へ。白国の入り口、尾野畑君の表に自転車を置き、腰にリンを着けてリンリンリンと鳴らし乍(ながら)走って
口白国〜奥白国〜増位方面へグルリ一周して、ようやく元の場所へ帰ると配達し終わる。こうして約1時間余り走り続けるのだ。
従って、夏なら未だ一寸明るいうちに配達し終わるが、冬は毎日舎を出る頃から暗いから大変な仕事だ。腰のリンが鳴るから犬によく吠えられたり、ドブへはまりそうになったり・・・・・。
配達料は、一部:一か月で1銭5厘〜2銭位だったと思う。200軒廻ったとして、月に3円〜4円。之に号外が昼間時々出る。
戦時ニュースとか内閣改造とか大事故・・・・etc、なにぶんテレビ・ラジオのない時代だからよく号外が出る。
この号外は1回10銭位だ。こうして儲けた金は全部母に渡した。母は大喜びだ。
母の喜ぶ顔を見るのが嬉しくて、1年〜2年と夕刊配達をした。その内、朝刊も「保城だけ配達してくれないか」と頼まれ、これも引き受ける。
朝刊は値が良い。1部、3〜4銭くれたと思う。合計して月に7円〜8円位か或いは10円弱か・・・・・?
はっきりした記憶はないが、全部母に渡すのだから、母が喜ぶのは当然だ。こうして5年〜6年過ぎた。
その時の毎日舎の二木さんが洋品店を開業し、之をドンドン拡張して現在のジャスコを作った二木さんだ。然しこの二木さんも先年亡くなった。

国鉄受験


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