私の履歴書   そのU



「C51 輝く紀元二千六百年式典、御召列車用機関車ノ姿」との親父のコメントが残っています。

国鉄受験
こうして新聞配達をしながら、昼間は父と田や畑、山と働くのだが、いつまでも新聞配達では恥ずかしい。この間も、始終就職先はないかと懸命に探し続けた。
時に、かねてから依頼していた国鉄の採用試験が久し振りにあるが「受験しないか」と同村の中尾定次氏から連絡があった。ヨシ頑張ろうと、二つ返事で承諾。
昭和8年4月16日、岡山運輸事務所とのこと。
受験に備えて時々勉強していたが、愈々だから急遽猛勉強だ。(然し、夜夕刊を配ってからだ。)
同村の大塚重信君も行くとの事で、二人で一緒に岡山へ・・・・・(大塚君は既に旧制中学を出ていた。)
この試験には是非合格せねばと必死だった。時間いっぱいかけて頑張った。大体できたと思った。ヤレヤレ、これで結果を待つばかりだ。
と、これを唯一の楽しみに、やっぱり昼間は野良、朝夕は新聞配達の毎日だ。
その内、「大塚君に採用の通知が来た」彼は姫路機関区へ就職した。自分は遅い・・・待てど暮らせど通知なし。必ず通知が来る筈と思うが遅い。

国鉄へ就職 昭和8年12月16日)
大塚君は中学を出ているからよく出来たのだろう。自分は駄目か・・・・とがっかり。(試験は中学卒も一緒だ)
やがて昭和8年も押し詰まった12月初めに、ようやく採用通知が届いた。
何分前記した如く、不況時代で、国鉄も採用はごく僅かだし、受験者は多いから欠員の出た個所から僅か採用するのだ。
自分は機関区志望だったが、姫路検車区で採用とのこと。検車区って何をする所かナーと思いながら、中尾定次氏に連れられて検車区へ。
客車や貨車の検査・修理をするところだ。早速その日から作業着(青色の菜っ葉服)を貰い、見習いが始まる。

職名   検車助手見習い。     日給    86銭を給す。

こうして4〜5日見習いをしたが、「貨車係へ廻れ」とのことで、姫路操車場の貨車職場へ。
今度は、職名は一緒だが小使いで、先輩達が現場へ出た後、ストーブの掃除をしたり、便所・洗面所の掃除、次は購買部へ先輩たちの家庭必需品を買いに行くのだ。
現金もあれば伝票の人もある。米・味噌・醤油からチリ紙類まで・・・・・。之をそれぞれ買ってきて先輩たちに渡す。
つまらない仕事だが、朝夕小倉の制服を着て正帽で通勤できるのだから、村の人に出会っても大きな顔が出来る。
その頃は国鉄が給料でも一番良かった。郵便局も警察も、みな安い。それに無賃乗車証があたるのだから、国鉄志望はものすごかった。
こうして憧れの国鉄へようやく就職できた。給料が月24円〜25円あるから、これを母に渡すことが出来ると思うと、之が一番嬉しかった。
もちろん、毎日舎での新聞配達とはお別れした。

兄嫁死亡
国鉄へ就職して10日ほど経った昭和8年の暮れ、長兄の妻「ナカ」さんが死亡した。(その以前に三木から姫路へ帰って来ていたらしい)
就職して10日程だから、もちろん忌引休暇はなし。その時の助役が「石野君、葬式だったら明日一日休みなさい」と、一日休ませてくれた。
時に、兄36歳で、義弘を頭に3人の男児がいた。以後、独身で通し、子供達は母が育てた。(母も大変だったろうと思う)
長兄は失業して帰り、その後もブラブラするのだから、一家を支えるどころではない。
子供を連れて母親にオンブしてもらうのだから、その後の生活費でも末弟の自分の給料で母が運営だ。
従って、その後も長らく母に給料をほとんど出し、貯金も国鉄で僅かにするのみ。之で自分の前途も失敗だ。その頃は、別段これがつまらぬとも思わず、せっせと母に渡した。
後に「馬鹿見たナー、飯代だけ入れて月収の半分貯金していたら相当貯めていたのに」と、後悔した。

右腕骨折
こうして正月も済み、春3月。(未だ小使いだ)
時の主任(後に区長と改称される)が野球が好きで、「若い者は全員野球をせよ」との事。自分はスポーツは苦手だ。
野球は見るのは好きだが、下手だからするのは苦手だ。
だが検車区は総員100人程で、若い者は採用しなかったから極少ない。従って、上手下手にかかわらず練習しなければならない。
昭和9年3月15日から検車区の練習開始だ。姫路駅裏のグラウンドで15時頃から毎日練習との事。
自分は外野だ。打球が飛んできたので受けて投げようとした。途端に右腕がダランとして「ア、痛い痛い」練習どころか、大変な騒ぎになった。骨折だった。
その夜は鉄道倶楽部で一泊させられ、翌日事務助役に連れられ大阪天王寺鉄道病院へ・・・。(姫路は診療所だけで病院はなかった)
外科医長の植木先生が「右上腕骨折、一ヶ月半入院」との診断だ。駒吉兄がその日付き添いで上阪してくれたので、家へ詳細を報告してもらい以後入院生活が始まった。
食事はうまいが、右腕を(金網を折り曲げて身体に縛る)体に縛られているので、左手でスプーンでの食事だから慣れるまで大変だった。完全看護だ。
やがて、教習所の入試もそのうちに受けなければならぬから、勉強をせねばならぬがここでは勉強どころではない。
こうなれば成り行き任せだ、のんびりしようと腹を決めた。内臓は悪くないのだから食事はうまい。
病院生活もだんだん慣れて知己もでき、雑談しながら「日が経てば接着するのだ」と暢気な気持ちになり比較的楽しく過ごした。
こうして一ヶ月ほどで右腕の添え木が取り外された。骨折部が接着したのだ。これでどうにか右手で食事が出来るようになった。ヤレヤレ・・・後はマッサージでもみほぐし。
5月7日、退院許可が出て約50日振りに帰宅できた。退院は出来たがしばらく通院せよとの事。毎日通院パスで天王寺まで帰姫すると夕方まで事務室の給仕だ。
何分、国鉄へ就職して3か月ほどでケガ・入院・通院だから職場の先輩や事務室一同がどう見ているかと、気兼ねと遠慮で相当神経を遣った。
入院中に先輩の吉田三次氏が新米の自分にワザワザ天王寺までカステラを持って見舞いに来て下さった。
大勢の先輩の中でただ一人だけだ。感謝感謝。 あさえ姉も来てくれたが、父や母は一度も来なかった。

算数塾へ
国鉄へ就職したからには勉強して、「少しでも早く昇進せねば」と、人づてに聞いた。五軒邸の角田算数塾へかねてから入門していた。
毎日、勤務の帰りに1時間余り、鶴亀算・流水算他を習っていた。小学生たちも、理解のある家庭の子供達は塾へ通っていた。大体昼間だ。中学入試に備えていたらしい。
昭和9年頃でこの通りだから、現在塾が盛んなはずだ。之が腕の骨折で2か月余り休んだため、再び算数塾へ行き、算数、時には国語も習った。
当面の目標は教習所の検査手科だ。之は算術・国語・作文だから、先ず之を征服することだと算術に重きを置いた。国語は小学時代から得意だったから自信があった。

教習所入所
腕もようやく全治した。野球も夏場になり休止だし、本腰で勉強を始めた頃、第65期検査手科が鉄道局報にでた。
主任は「受験資格のある者は全員受験せよ」と言う。自分は小使いやケガで入院や給仕で実地の見習いは全然していないが、受験資格(就職後10か月)だけはついていた。
困ったナーと思ったが、このチャンスを逃しては大分遅れるから「よし、当たって砕けろだ、頑張ろう」と受験に踏み切る。岡田、伊藤、今田と自分と4人で受験した。
幸いにして試験は大体できた。発表は何時かなー・・・と之を待つ。1週間して、鉄道局報に合格者氏名が発表された。姫路は全員合格だ。
広い大阪鉄道管内で僅か15名しか合格できないのに、姫路から4名とも合格したので、主任はとても喜んでくれた。
教習所の規約があって、就職後10ヶ月以上となっている。従って、自分はどうにか受験資格が出来て、さっそく受験、パスとなれば最も最短距離だ。
先輩達も、「今度の新規採用者はよくやったナー」と、チョイチョイ言うのが耳に入り、とても嬉しかった。
時に昭和9年12月1日から4カ月間の鷹取鉄道教習所生徒となった。全寮制で、全員入寮。姫路4名、神戸1名、吹田2名、京都3名、湊町2名、米子3名で計15名だ。
その内、高等小学校卒業は自分だけ。他は旧制中学、鉄道学校を卒業している。
「なにくそ、負けてたまるか」と、机を並べる。が、彼らは英語でも数学でも基礎知識があるからよいが、自分は苦しかった。
また、技術面でも皆、実地で見習いをしているからよいが、自分はケガが影響して、全然やっていないから之も苦しい。でも何とかやり通した。
中間試験、卒業試験と2回試験があったが、一人の落後者もなく、翌年3月に全員が終了した。修学旅行は九州一周、二泊三日だった。

第65期 検車手科
修学旅行記念

昭和10年3月

別府:海地獄ニ於いて



親父の書き込みがあります
同じく修学旅行

大阿蘇頂上に於いて
後方は噴火口の煙

雇員となる
教習所卒業と共に「雇員、日給1円10銭を給す」との辞令が出た。86銭から一躍1円10銭に飛んだのだ。(24歳)
昇給が1年で5銭くらいの時代だから24銭も飛べば立派なもんだ。服も今までの小倉からラシャの制服、袖章も1本付いた。これで自分も一人前になった。
職名も検車助手となり、見習いが解けた。その後6カ月ほど経つと自動的に昇格。
辞令  雇員 月給45円を給す。  職名  検査手ヲ命ず。
国鉄へ入って2年足らずで月給45円となったのだから全く上出来だ。昭和10年頃と言えば、大工の日給が1円50銭位の時代だからよい月給だ。
之で同級生に会っても誰に会っても恥ずかしくない。例の畑田秋子さんに一度会ってみたい。
中学へ行かなくても、これだけ早く月給45円なった。かつての同窓会で恥ずかしい、淋しい思いをしたので一層その感を深くする。
だが、会いたいと思えばなかなか会えない。残念、その後、秋子さんとは全然会ったこともなし。68歳になった今も全然会えない。ハハハ・・・・・。

母の喜び
月給45円ももらえれば、自分は酒も煙草も全然不要だし、菓子を買って食べるだけだから貯金を3円ほど国鉄共済貯金へ、小遣いを5円ほど母から貰い給料は袋のまま母に渡した。
母の喜びは大したもの、政一、政一と喜んでくれ、「又パスが取れたら旅行に連れて行ってくれ」と全く上機嫌だ。
当時の自分は之で満足だった。(家庭環境から見て)

国鉄パス
茲でちょっと乗車証(国鉄パス)について触れてみよう。
国鉄に採用されると、約半月の試用期間がある。之が済み、本採用になると居住地〜勤務先までの通勤パスが支給される。
半年経過すると、大鉄局管内のみの乗車証となり、雇員となると必要の際、使用できる国鉄全線パスが何時でも取れる。
従って、自分は早く雇員となったから之を使用すればいい。家族も、父、母、兄弟、姉妹は使用出来た。
だからちょいちょいと母や駒吉兄もパスで一緒に別府温泉やその他旅行した。その後、母は高野山、善光寺等、よく曽比に連れて行った。
母は之が嬉しいから、よく近所の人に「政一のおかげで何処へでもタダで行けて結構や」と自慢していたのを思い出す。
昔は「国鉄の人は汽車はタダで通っていた。それが現在、世論がやかましくなってきたので言えなくなり、愈々パスが全廃されるようになろうとは想像だにしなかった。
独立して世帯を持つと、パスは妻子、父母だけとなり、兄弟、姉妹は削除された。なお、父は一度も旅行した事なし。 横道に逸れたが・・・・・。

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