2014年7月10日 金曜日

項羽と劉邦のサイトを作ろうとしてからすでに数週間経っています。
あまりにスケールが大きすぎて、登場人物が多すぎて、エピソードが多すぎて何から始めたらいいのか見当もつかなかったのです。

しかし最近、ちょっと「出来るかな…」と思い始めました。
それは、テーマを絞ることから始めるということです。

舞台は紀元前200年頃、秦の始皇帝が亡くなる頃です。
登場人物を知ってもらった方が話が分かりやすいので、下の画像を参考にしてください。

 

人物相関図より、この歴史地図は役に立ちます。
やはり敵陣とか自軍の位置関係を知ることは、「何故こういう行動をしたのか?」を理解する上に不可欠です。



日本と時間軸を共有することによって、対比しながら考えられるのでこれも必須でしょう。

秦の始皇帝

 

焚書坑儒とか兵馬俑とか、現在に残るたくさんのエピソードは「歴史がここから始まった」ともいえます。

主人公 項羽と虞美人

 

山を抜く力 虞美人草 四面楚歌 垓下の戦い 鴻門の会・・・これから書きます。

  

劉邦:漢帝国を築いた初代皇帝です。 後の呂皇后:呂雉(りょち)です。

 

張良と韓信  漢帝国を話すうえで、この二人は欠くことが出来ません。


人物の紹介はこれくらいにして本題に入ります。   真っ先に思ったのは「鴻門の会」です。

「会」というと会談と思われるかもしれませんが、実際は「鉅鹿(きょろく)の戦い」で秦を壊滅状態にし、
さらに漢中まで攻め入って秦の都咸陽を落とし、ついに秦を滅亡させた後の論功行賞の場で、
劉邦を呼びつけて「詰問」したのですから劉邦は返事によっては殺されます。


 

ドラマの中での一場面ですが、実際こんな感じだったのだと思います。

余談ですが、日本で言えば秀吉の小田原攻めの伊達政宗の立場でしょう。
政宗は白装束に身を包んで秀吉の前に現れましたが、決死の覚悟だったと思います。

劉邦も全く同じ立場でしたが、項羽は劉邦をなめていたから殺さなかったのです。
この時点では項羽が圧倒的に優勢で、秦を滅ぼして次の覇王になるのは既定の事実だったはずです。

項羽はいつでも劉邦を殺すことが出来ていたのです
が、なぜ劉邦は生き延びて漢帝国を成立させる事が出来たのか?

私の考える理由 その1

  項羽は、猫がネズミをなぶり殺しにするように劉邦を泳がせてしまったのです。
  それは「いつでも殺せる」という思い込みがあったからです。

  なぜそう思ったのか? 
私は「歳の差」だと思います。
項羽は24才で劉邦は46歳です。二周り近くの年齢差があります。
  当時(今から2200年も昔)の常識で言えば50歳を超えていくらも長生きできるはずがないと考えるのが普通だと思うのです。
  だから周囲が殺そうと言っても「放っておいた」んだと思うのです。

理由 その2

  軍事力が全く違う(圧倒的に項羽が優勢だった)からです。

項羽は楚の名門貴族の出身で、膂力は人一倍強く(山を抜く力)、戦場では先頭に立って戦ったのです。
またその力によって兵士を魅了し、圧倒的な神秘性を備えていたの
です。

しかし秦末期から続く動乱で、人々は疲れ果てて平和に憧れていたのです。
  そのために、戦には強いが人心を引きつける魅力に欠けていた項羽より、ちょっと頼りないけど人間性のある劉邦に靡いたのだと思います。

理由 その3

  項羽は楚の出身で、戦が終わったので楚の中心である江南へ帰ろうとしたことが大失敗だったと思うのです。

  秦の都:咸陽は天然の大要塞で、地味は肥沃で軍事力を養うのに十分な食料を得る事ができたのです。
しかし当時の江南の地は「僻地」であり、項羽の
40万人とも50人とも言われる軍勢を養うのに適した地ではなかったのです。

  逆に劉邦は巴蜀と漢の地を得たことで、経済力をつけることができたのです。
言い換えれば、兵力を養うことができた事が漢帝国を作ることができた要因です。

理由 その4

  いろいろな理由があるでしょうが、最大の理由は項羽の性格でしょう。

  彼は個人的に圧倒的な力を持っていたために、武力で何でもできると考えたのです。
  弱者の思いなど、露ほども考えることができなかったのです。平気で何十万人の人間を殺すことができた性格です。

  結果は「垓下の戦い」で「四面楚歌」を聴いて自分の敗北を悟るのです。

鴻門の会以前

紀元前207年、楚の懐王は、漢中をはじめに平定したものを関中の王とすると諸将に約束した。
懐王は、項羽らを張の救援のために北上させたが、劉邦(当時は沛公)には、寒告間函谷関より関中へ進軍するよう命じた。

命を受けた劉邦は軍を進め、秦軍と戦った。一方、秦の宰相である趙高は、二世皇帝を殺害し、関中を二分しようと提案してきた。
劉邦はこれを謀略と断じ、張良の建策に従って秦の将軍を買収し、武関を攻略。関中に侵入し、秦軍を撃破した。
その際、秦王の子嬰が降伏し、劉邦は遂に軍を率いて秦都咸陽へ入る。

この時、項羽はまだ関中に至っていなかった。劉邦に後れて函谷関に至った項羽は、関を守る劉邦軍の兵を見る。
更に、劉邦がすでに秦都咸陽を陥落させたと聞いて大いに怒り、当陽君らを派遣して函谷関を攻撃し、関中へ入って戯西に軍を進めた。
劉邦に謀反の罪を問い、撃滅してしまおうとしたのである。項羽軍は劉邦軍に比べて兵力のみならず勇猛さでも圧倒的に上であり、劉邦の命運は風前の灯となった。

項羽の叔父の項伯は夜密かに馬を走らせ、劉邦に客将として従っていた張良に会った。項伯は張良とかねてより親しく、また仇持ちとなった際に匿ってもらった恩義があった。
事の顛末を話し、君だけは助けたいと共に脱出するよう誘うが、張良はそれを拒否し、一部始終を劉邦に伝えた。
劉邦は驚き、項伯と会って姻戚関係を結ぶことを約束し「咸陽に入って以来、宝物などを奪う事もせず、項羽将軍を待っていました。
関に兵を置いたのは、盗賊と非常時に備えたものです。これを項羽将軍に伝えてください」と言った。
項伯は納得するがそれを項羽へ伝える条件として、劉邦が明朝、項羽の陣営へ直接来て謝罪する必要があると言い、これを劉邦は受け入れた。
一方の項羽も項伯のとりなしにより怒りが和らぎ、弁明を聞くことにした。そしてその翌日、後にいう「鴻門の会」が行われることとなった。

鴻門の会

翌朝、劉邦は鴻門に項羽を訪ねた。しかし護衛の兵は陣外に留め置かれ、本営には劉邦と張良だけが通された。
劉邦はまず項羽に謙って謝罪し、「私達は秦を討つために協力し、項羽将軍は河北に、臣は河南に戦いました。
思いもよらず先に関中に入りましたが、小人の讒言によって、互いの関係にヒビが入っているのは残念でなりません」と弁明した。
それに対して項羽は、「それは曹無傷が言った事だ」と返した。

項羽は宴会を始め、項羽・項伯は東に向いて上座に座った。范増は南向き、劉邦は北向き、張良は西向きにそれぞれ座った。
宴会中、范増は項羽に目配せして、劉邦を斬るよう合図を送った。
そもそも劉邦を陣中に入れたこと自体が謀叛を大義名分として斬ることを目的としたもので、彼を項羽のライバルとして警戒する范増が強く進言したものだった。
しかし、劉邦が卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は討つ気が失せ、一向に動かなかった。
三度合図を送っても全く動かなかったので、范増は一旦中座して項荘を呼び、祝いの剣舞と称して劉邦に近づき、斬るよう命じた。
これを受けて項荘は剣舞を始めたが、企みに勘づいた項伯も相方として剣舞を始め、項荘を遮り続けた。

 

この時、張良も中座し、陣外に待機していた樊?に事態の深刻さを伝えた。樊?は髪を逆立てて護衛の兵士を盾ではじき飛ばし宴席に突入。
「戦勝の振る舞いがない!お流れを頂戴致したく願います!」と項羽をにらみつけ、その凄まじい剣幕に剣舞が中止となる。
項羽はその豪傑ぶりに感心し、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊?はそれを一気に飲み干した。
更に、豚の生肩肉を丸々一塊出すと、樊?は盾をまな板にして帯びていた剣でその肉を切り刻み、平らげた。
ここで項羽がもう一杯と酒を勧めると、樊?は「私は死すら恐れませんのに、どうして酒を断る理由がありましょうか。

秦王は暴虐で、人々は背きました。懐王は諸将に、先に咸陽に入ったものを王にすると約束しました。
沛公は先に咸陽に入りましたが、宝物の略奪もせず、覇上に軍をとどめ、将軍(項羽のこと)の到着を待っていました。
関に兵を派遣したのも、盗賊と非常時に備えるためです。
未だに恩賞もないのに、讒言を聞き入れて功ある人を殺すというのは、秦の二の舞ではありませんか」と述べた。
これに対して項羽は返す言葉がなく、「それほど心配なら、ここに座っても良いぞ」と言うのみだった。

その後、劉邦が席を立ったまま戻ってこないので、項羽は陳平に命じて劉邦を呼びに行かせたが、劉邦は樊?と共に鴻門をすでに去り、自陣に到着していた。
この際、張良は、劉邦が酒に酔いすぎて失礼をしてしまいそうなので中座したと項羽に謝罪し、贈り物を渡すと自らも辞去した。

贈り物を前にした項羽はご機嫌だったが、
范増は情に負けて将来の禍根を絶つ千載一遇の機会を逃した項羽に対し「こんな小僧と一緒では、謀ることなど出来ぬ!」と激怒し、贈り物の玉斗を自らの剣で砕く。
さらに深い嘆息をもらして、劉邦を討ち取る事ができなかったので、「そのうち天下は必ず劉邦に奪われ、我らは捕虜となってしまうだろう」と嘆いた。
劉邦は自軍に戻ると、さっそく項羽に讒言をした曹無傷を誅殺した。

鴻門の会以後

鴻門の会において劉邦の釈明を受け入れた格好になった項羽は、劉邦を討つ大義名分を失う。
天下を平らげ劉邦を蜀巴の地へ左遷はしたものの、ここで劉邦を討てなかったことが後の敗北につながった。

また范増も項羽が劉邦を討たなかったことに憤慨し、後々の離間の遠因となる。范増を失った楚軍は張良・陳平の策謀に対抗する力も失った。

この鴻門の会は劉邦最大の危機であったが、劉邦は臣下の進言を受け入れてその通りに行動し、また臣下も身命を賭して主君の危機を救った。
これと対照的に、自らに実力があり自信もあったが故に臣下の進言を聞かなかった項羽は、その後、悲劇的な運命をたどる。

話が長くなりますので、「次回に続く・・・」とします。

四面楚歌と垓下の戦いです。

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