2014年10月4日 項羽と劉邦の後半を書きます。
四面楚歌と垓下の戦い
助けがなく、周囲が敵や反対者ばかりであること。孤立無援なようす。
楚の項羽が、垓下において漢の高祖(劉邦)の軍に包囲された時、四方の漢軍の中から、
故郷である楚の歌声があがるのを耳にし、楚の地が既に漢軍に降伏したかと驚い
項羽は虞姫を抱いたまま熟睡した。
遠くで風が樹木を鳴らしている。風か、と思ったが、軍勢のざわめきのようでもあった。
(あれは楚歌ではないか)
歌は、この城内の者が歌っているのではなく、すべて城外の野から湧きあがっているのである。
楚の国は言語が中原と異なっているだけでなく、音律も違っている。
楚の音律は悲しく、時にむせぶようであり、ときに怨ずるようで、それを聴けばたれの耳にも楚歌であることが分かる。
しかも四面ことごとく楚歌であった。
我が兵が、こうもおびただしく漢に味方したか・・・と思った時、楚人の大王としての項羽は自分の命運の尽きた事を知った。
しかしこの楚歌はどういう人々が歌ったのであろう。
古来、韓信が楚歌を歌わせたのだという説がある。しかし、韓信の作戦癖からいえばその奇想は常に物理的着想で、
このように項羽その人の心の張りを失わせるような心理的効果を考えての、いわば陰気な発想を採るとは思われない。
しかしどういう人々が歌ったのかとなると、分からない。
いずれにしても項羽はこの歌によって、就寝する前の様子とは違った方向へ方角を切り替えたことは確かであった。
力は山を抜き 気は世を蓋う 時に利あらずして
騅逝かず 騅逝かざるを奈何すべき
虞や 虞や 汝を奈何せん
虞姫よ、この項羽の悲運などどうでもよい。
この世にお前を残すことだけが恨みだ、という、ただそれだけの事をこの詩によって言いたかったに違いない。
彼女は項羽の願望と自分のそれが一つであることを証かすためにすぐさま立ち上がり、
剣をとって舞い、舞いつつ項羽の即興詩を繰り返し謡った。
彼女が舞いおさめると項羽は剣を抜き、一刀で斬り下げ、とどめを刺した。
後の世で「虞美人草:ぐびじんそう」の語源にもなった項羽の愛妾です。
垓下の戦い
項羽は悲痛だった。
城楼からのぞんだ時、夕日をあびて戦場に置き捨てられてるおびただしい死骸のほとんどは楚兵であることを知らねばならなかった。
最後がきたらしい・・・・。
項羽は劉邦と闘いたかった。
その為、死を覚悟した戦いの中で、項羽はこの城を脱出しようとしていた。
終日、城楼から戦いを指揮した。
しかし朝出撃した部隊は昼ごろには半分になり、夕刻には一人も見えず、夕闇が立ち込める頃には、あたりを疾駆するのは韓信の兵ばかりだった。
最後に来てどうにも文章がまとまらず、おかしな終わり方になってしまいますが笑って許してください。
項羽は壮絶な最後を遂げます。
これによって楚国は滅び、漢帝国が成立したのです。
「漢」は後々の世までその名とその文化を残しました。
今、我々日本人が日常生活で使っている「漢字」が、そもそも漢の時代からの贈り物なんですから。
さらに多くの物語も残してくれました。
多くの作家がたくさんの名作を残し、さらに新しい小説を生み出し続けています。
それだけ多くの人々を魅了し続ける「なにか」があるのでしょう。
摩訶不思議・・・不可能を可能にするなにかがあるのだと思っています。
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