2009年9月22日 火曜日 「晴の国:岡山」NoU「備中高松城址」です。

備中高松城址は、一度は来てみたいと思っていたので嬉しかったです。
その反面、私の抱いていた印象と、現実との落差に「エッ:これが・・・」と思ったのも事実です。



 

これが「備中高松城址」なんです・・・・私の持っていた印象とは全くかけ離れたものでした。

備中高松城といえば「水攻め」ですから、当然私は、お城は水と縁のない「山城」を想像していたのです。
しかし現実は逆に、川:沼を天然の外堀として張り廻らせて人馬の進み難い「平城」だったのです。

簡単に「備中高松城の水攻め」について説明します。

織田信長の命を受けた秀吉は、3万の大軍をもって備中に入り、毛利氏の諸城を次々と攻略し、高松城に迫った。
高松城は深田や沼沢の中に囲まれた平城で、水面との差が僅か4メートルしかなく、人馬の進み難い要害の城でした。

秀吉は参謀:黒田官兵衛の献策に、戦史にも稀な水攻めを断行し、兵糧攻めにした。
秀吉は、城を囲む3000メートルにも及ぶ土塁を僅か12日間で完成させて、ちょうど梅雨時で増水した足守川の水を流し込みました。
城はたちまちにして188haの大湖水に浮かぶ湖上の城となって孤立してしまった。

6月2日の早暁、本能寺で信長を殺した明智光秀の使者が、京都から備中までの240キロを僅か20時間で備中に到着。
ここからが「歴史のいたずら」と思うのですが、秀吉の陣中へ迷い込んできたのです。

秀吉はこの使者をすぐさま殺したうえで、毛利方の軍師「安国寺恵瓊(あんこくじえけい)」を招き、
今日中に和を結べば毛利から領地をとらない。高松城の城主の清水宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件を出す。
宗治は「主家の安泰と部下5千人の命が助かるなら明日6月4日に切腹する」と自刃を承諾したのです。

現在は「高松城址公園」として整備されており、歴史を学びながら潤いと憩いのある歴史公園として市民に親しまれています。

碑文の後方には散策の人がおられます。 
「高松城懐古」と題して、往時を偲ぶ碑が設置されています。

 

身を殺して衆を救う  又 誰かたとえん        城郭 如金      址 なお畄(と)まる
当年を追憶し        雄魄を弔う        翠松(すいしょう)独り有って  林邱を護る

簡単に訳してみると、
清水宗治が自刃して家来一族を救った そして城はその跡を残している
私は、当時を追憶して宗治の勇気に感嘆する。 今、緑の松林がその小さな丘を護っているようである。

 

岡山県立の「資料館」が作られています。

ごく小さな建物ですが、総社地方の古代からの歴史も同時に整備されているようです。

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