私の履歴書   パート3

父 死亡
ちょうど、客車の列車検査員として本駅で一昼夜勤務時代。
正月、元旦の夜、休養時間(4時間)で寝ていた時、「石野 石野」と呼び起された。駒吉兄が父の死を伝えに来ていた。(電話はない時代)
書き洩らしたが、父は何ヶ月か前から腎臓を悪くして病臥(びょうが)していた。時に父、数えで61歳になったばかりの1月1日だ。
葬式は1月3日、保城の墓地で行った。国鉄から大勢参列してくれたが、寒い日だった。

兵庫県立工業通学
勤務も、列車検査(一昼夜)と仕立て検査(日勤)を繰り返していた。
が、そうだ、次は習技生試験とか、まだまだ難関あり。よし、勉強してこれ等も征服して、やがては区長になってやろうとファイトを燃やす。
それには、英語と数学を勉強せねばならぬ。先ず、基礎からやらねば・・・・・と兵庫県工業へ願書をだす。
時の担当助役にその旨を伝え、夕方ちょっと早目に勤務を終わらせてもらい、17時頃の列車で兵庫駅まで。夜学が終わると急行に飛び乗り、帰るのだ。(帰姫)
之が約1年間続いた。当初の目標は県工(2年)高工(3年)をやる予定だった。

客貨車検査競技会出場
その頃、大鉄局で検査標準(案)が作成され、之をテストケースとして管内から優秀な選手を出し、実際にやらせてみようと検査技術会が催されることになった。
自分も姫路代表として、増田、田中、石野で1チームを作り出場することになった。各庫代表8チームで競技会をする。
これには実技と学科を暗記、勉強せねばならない。夜学どころではない。仕方なく約2カ月、勉強と練習に取り込む。
競技会は吹田で行われ、大勢の見学者の前で競技会は行われた。成績は8組中4番目で、先ず先ずで終了した。
県立工業(県工)を2か月も休校したので、「エエイ、ままよ」と、遂に県工を断念した。

家庭塾
こうなれば基礎からでは遅い。個人教授へ行き、英語・数学のみを習うことだと探していると、総社の東に「松浦泰山堂」という塾があった。
茲で帰途に、2Hほど教えてもらった。角田算数塾では算数が主だったが、今度は英語・数学だ。
若し親が旧制中学校へ行かせてくれていたらこんなに苦労しなくてもよかったのだが・・・・・冒頭に記したように、そんなことは出来た筈がない。
こうして「松浦泰山堂」へ相当通ったと思う。

習技生試験パス
早いもので、国鉄に就職してから早くも6〜7年経った。時に昭和15年夏。かねてから心にかけていた表記の「第39期客貨車習技生募集」が局報に発表された。
ヨーシ、先ず習技生試験を受けよう。習技生(試験)とは規定、算術、国語、作文、一般常識だ。
之に備えて勉強したのだから・・・と、また受験することにした。習技生は大鉄局管内で3名だったのが、今期から6名採用するとの事。
「よし、シメタ。このチャンスを逃すな」と奮い立つ。姫路から田中、摩密、石野の3名受験。今度は大分難しかった。でも、まず出来たように思う。

遂に発表が出た。摩密、石野の2名が合格した。ヤッター!!田中氏は以前から何回も受けたがいつもすべった。
姫路2、鷹取2、吹田1、出雲今市1の計6名だ。時に昭和15年9月1日「4ヶ月間、鷹取工場へ出張を命ず」との辞令が出た。
習技生というのは、鷹取工場で客車や貨車を解体し、錆を落とし修理、整備して復元して大修理を完了するまでの過程を見学し、
将来幹部として助役、区長になる得る者だけが行けるところだ。従って試験は難しく、且つ採用者も少ない。その上、出張旅費が習技期間中1日70銭支給される。(月21円)
試験も入試だけで卒業試験はなく、毎日見学した事を習技報告として、最後に一冊の論文として書き、大鉄局客貨車課長まで提出するのみだ。
故に誰でも行きたいが、試験に自信のない者は諦めている。
勤務も工場従業員と同じくタイムカードで、朝晩カードは打つが、途中遊びに出ても守衛は腕に嵌めた腕章を見て敬礼しているのみ・・・結構な生徒だ。

昭和15年12月写す
鷹取工場正門横ニテ


中央は鈴木工場長

私の親父は
後列右端です

須磨に下宿
家から通勤すれば旅費毎月21円がまる残りになるのだが、朝8時にタイムカードを打たなければならぬから、自分は須磨月見山に下宿を見つけ下宿した。
下宿代は、朝夕2食付きで月15円。従って出張旅費が21円あるからまだお釣りがある。摩密君は通勤した。
カードは「石野君 押してくれるか」で押してやった。自分は夜に勉強しようと下宿した。こうして先輩を尻目に、習技生の難関を突破したのだから羨望の的だ。
習技生を修了すれば助役の卵で、欠員が出来れば助役になれるのだ。要するに国鉄は試験制度だから、勉強意欲のある者はドンドン昇進できるのだ。
学歴は問わない。努力次第だ。(但し、国立大学出は別だ)
田舎育ちの自分は下宿なんて初めてだし、それも神戸市の都会だし、(特に若い美しい娘さんが一人いた。自分より2〜3歳上らしいが美しい人だ)
最初ちょっと恥ずかしかった。その内、下宿して半月ほど経った頃、隣室の床の間へ一人下宿してきた。

東大工学部出身のエリートで、此の人たちは僅かな期間、見習いで、やがて課長、部長、局長へ進み、
将来国鉄本省で日本の国鉄を背負う人になるのだ。余談はさておき、こうして隣室へ一人来たので連れが出来、食事も遠慮が少なくなったが・・・・・ハハハ。
一つ釜の飯を食べるのだから、偉い人の卵でも、下宿では雑談もして楽しく過ごした。
さて習技生だが、前記の如く、入ってしまえば暢気なもんだ。「習技生掛」というのが期間中の工場見学の割り振りをしてくれるので、
朝ちょっと工場を覗けば、6人で5銭喫茶へ遊びに出たり、時には須磨の海岸までブラブラしたりだ。土曜日は守衛に断って昼までで終わり、帰宅した。
その後の長い国鉄生活の中でも、此の習技生期間が最も楽しかった。時に大東亜戦争の前、昭和12年7月にロ構橋事変に端を発し、支那事変が始まっていた。
食糧からあらゆる物資は軍隊用として支那大陸へドンドン輸送され、国民は食糧難に陥りかけていた。
自分は独身だから結構なもので、世間の嘆きを聴きながらのんびりと過ごしていた。

親父の古いアルバムに
残っている写真を
スキャンしました。



若い美しい娘さん
ではないでしょうか?

統制経済

支那事変はますます激しくなり、勝つためには国民は苦しくとも我慢し、兵隊に軍隊にと物資を送る。
内地ではだんだん食料も、他の衣服、甘味品もなくなりかけた。米、麦はボツボツあったが、だんだんと戦争が進むにつれ配給制が行われ始めた。
菓子、饅頭類も配給制で、配給切符以外では買えなくなった。
土帰、月来で土曜日に帰宅すると、「政一に置いてやっていたのだ」と、饅頭等甘味品をソロッと出してくれた。
食べたり、下宿へ持って帰ったりしたのが思い出される。こうして昭和15年12月末、習技生を卒業。再び姫路検車区へ着任した。

家族のその後にちょっとふれてみよう

長兄寅男は前にも記したが、自分が国鉄へ就職した頃三木市から引き上げ、妻に先立たれ子供達を母に養育させ、
父の死後、田や畑や山と、父がしていたのと同じような事のみで、他は釣りで、30代の若い身で遊び半分。
時たま、2〜3日保線区の臨時人夫で出たりしていたが、自分の小遣い銭にも事欠いていたのではないかと思う。64才で死亡。
次兄の朝吉は三菱造船所を止めて大日町へ帰り、軽合金業をした。当時製品もよく出たが、戦中戦後が済むとだんだん寂れ、最後は捗捗しくなく67才くらいか、死亡。
三兄駒吉は石本鉄工所でブラブラ働きながら結婚。馬車道の借家へ新宅(分家)したが、大東亜戦争に36才で補充兵召集され、ビルマで戦死。
子供(たか子)が一人出来たが、そのたか子に養子をもらい、一家は現在伊伝居に住む。

四兄政吉は、挽本鉄工所から徴兵検査で甲種合格。野砲隊(第10連隊)に入隊。伍長勤務上等兵で満期除隊。真面目さを買われ、時の中隊長の斡旋で日本フェルト会社に入社。
その後、池内美容院へ養子に行く。この兄とは意見がよく合い、独身中から自分の結婚後も親しくした。が、先年63才で死亡。
姉 あさえは東洋紡を経て井上虎次郎(イトコ)と結婚。大勢の子供に恵まれたが、虎次郎氏も先年死亡し、子女達も片付き、現在老後を掘留でひとり暮らしている。72才。
五兄 政信は尾上鉄工所から呉の海兵団へ現役入団。満期退団後、大阪住友金属入社。
胸膜を患い帰姫。新在家に家を建て、老後をのんびりとゲートボールで楽しみつつ健在。70才。
以上、大略家族のその後を書いたが、自分が習技生生活を終えて帰宅頃は父も死に、長兄が前の納屋に住み、母屋は母と兄の子供達と自分だけになっていた。

本筋に戻る

習技生も終わり、保城から姫路駅への通勤が始まった。母の弁当片手に野里駅まで走り姫路へ。西中島を通るとお寺の付近で可愛いセーラー服の女学生に時々出会う。
自分も25〜26才で、そろそろ?結婚時期に向かいつつある。セーラー服を見ると畑田秋子さんを連想するが、彼女とは全然会わぬ。今なら一度会って堂々と話してみたいが・・・・・。
此の子は大して美しくなく、小柄で心を惹かれた訳ではないが、セーラー服が懐かしいのだ。
(その後何年も経ち、結婚して八代に住むようになって、かのセーラー服の子が、八代南の町の黒田千代子さんだった事が分かった)

技術掛へ

こうして勤務するうち、区長から「技術掛ヲ命ず」との辞令をもらう。技術掛は助役の一歩手前だ。鼻高々で事務所勤務だ。
之で助役の席が空くのを待てば助役さんだと、張り切った。「黄金の日々」とまでは行かぬが、嬉しい毎日だった。

腰痛

その内、なぜか腰がチクチク痛み始めた。椅子に掛けると痛くないが、長く立っていたり歩くと痛い。鉄道診療所でもよく注射してもらったが効果なし。
藁をも掴む気持ちで、灸・ハリ・指圧療法と、百方手を尽くし、母にもよくお灸をしてもらったが同じだ。
困ったナー、困ったナー・・・。ふと、「温泉療養でも」と思い付き、大分県の別府(亀川療養所)に入湯しようと思いついた。

温泉療養

時に昭和16年12月8日 大東亜戦争が勃発。真珠湾攻撃で奇跡の大勝利を得、日本軍はドンドン米国を攻撃していた。日本中が勝利勝利の報道に酔っていた。
その12月16日にボーナスが60円余り出た。此の金は母とも相談の上「温泉費用」にと、母にも渡さず。
区長に許可を貰い、即日九州に向かった。勿論国鉄パスだから旅費は不要。宿泊代は上中下とあり、中等は三食付きで一日1円50銭だった。
60円あれば一か月余り入湯生活が出来る。内臓は悪くないのだから食事はうまい。療養所の近辺にも随所に露天風呂が沢山ある。
今日は何処、また今日は何処と、顔馴染みも出来たので、連れだって神経痛に良いという湯を求めて入湯に出かけたり、部屋へ戻ると勉強もし、雑誌も見たりの毎日だ。
然し、英語と数学の勉強だけは、たとえ僅かでも毎日必ず怠らずやった。やがて昭和16年も愈々押し詰まった。

九州の此の付近の人は正月休みを療養所でゆっくり過ごそうと、家族連れで来る人が相当あった。
その内の一家で、国鉄岩松工場勤務とかの奥さんが、主人や子供は31日から来るとかで、数日前から入湯しに来た。
年の頃なら30をちょっと出たくらいか?ポッテリと太った、色白でちょっと美しい人だ。此の人が「石野さん、湯に浸かりに行きましょうか」とよく誘いに来る。
「アー行きましょう」と、同室の心易い者達と連れだって露天風呂によく行った。自分達は男2〜3人、此の奥さんは一人だ。

昼間の露天風呂だから裸になるのが恥ずかしかろうと、こちらが思うが、スラリと着物を脱ぎ、ソロリと入ってくる。湯に透き通って白い肌が美しい。
我々男達が目をそむけたくなる。自分も正月になれば27才になろうとする年頃だ。思わぬ方が無理だが、彼女は平気なもの。
1対1ではないから、悪い手出しは誰もしない。色々と世間話を湯の中でしたり、時に冗談を言ったりだが・・・。このような楽しい日々が3〜4日あった。
若し、自分が手出しをしたら何とかなったかもしれなかったが、度胸がなく、空しく過ぎてしまった。
やがて、年末休暇で主人や子供が来て、正月を過ごすと彼女達は帰宅して行った。住所、氏名も聞いたと思うが記憶になく、その後文通したこともない。

自分は療養所で新年を祝い、まだまだゆっくりだ。
別府の街とか、宇佐八幡宮参拝とか九州の人が多いが、同室の男達とあちこち見物とか参拝とか入湯とかし乍、約40日を過ごす。
1月も半ばを過ぎ、腰の調子も大分良くなった。金もだんだん減ってきた。月給は母の手元に入っている筈だが、母からは1円の送金もなし。そろそろ帰姫せねば・・・と考え始めた。
昭和17年1月23日、懐かしの別府療養所を去り、姫路へ帰った。サアッ仕事が待っている。長らくの休暇の礼を区長に伝え、勤務に復帰した。

猛勉強

サアーッ腰の具合も大分よくなった。「やるぞ」と、仕事・勉強、仕事・勉強が半年ほど続いた。松浦泰山堂の先生とも親しくなり、約2時間宛が、3時間でも熱心に教えてくれた。
其の6月頃、遂に待望の「第5期運転高等科生徒募集」が出た。ヨシ、運転高等科入学が最後だ、之だけは当初からの目標だから「是非やるぞ」と応募した。
時の中村区長も「石野君 頑張れよ」と激励してくれた。

運転高等科入学 (昭和17年8月1日から昭和18年1月31日   約6カ月だ)

やがて試験が来た。過去の検査手科、習技生は一発で合格したが、今度は違う。旧制中学3年修了程度の入試だから、必然的に英語・数学が出るのだから緊張した。
やはり難しかった。落ち着いて、落ち着いてと、苛立つ心を抑え、終わりのベルが鳴るまで頑張った。今度は発表の辞令が出るまで長かった。
今日の局報か、明日の局報かと、毎日局報に飛びついた。ヤッター・ヤッター合格だ。出勤すると先輩が「石野君、合格したぞ。おめでとう」と祝福してくれた。
今度ばかりは特に嬉しかった。然し、前回の習技生は入試だけだったが、今度は6カ月間勉強があるのだから、之が大変だ。
姫路から2名合格した。それも同村の田村薫君という若い衆だ。彼は龍野中学を卒業していた。
そもそも、運転高等科というのは東京と大阪のみにあり、静岡を境に東は東京へ、静岡以西・九州・朝鮮・満鉄が大阪の範囲だ。
従って、教習所では最高級だ。機関士科・機関助手科・検車手科・電信科・駅員車掌科・保線科・電車運転士科等々・・・・・。
以上の如く、数多くの生徒が居て、数百名位いるが、我々は襟章に「Hバッジ」を付けている。
時恰(あたか)も戦時中の事でもあり、教習所も軍隊調で、「Hのバッジ」の生徒に出会えば、校内外を問わず、敬礼をしなければならない。
若し出会っても敬礼しない者がいれば、呼び出してバツを食わせるのだ。勿論、生徒は全員丸刈りにさせられ軍隊調だ。だから、威張ったものだ。
さて、入学は出来たが、顔ぶれを聞くと、ほとんど旧制中学卒だ。之から6ヶ月間勉強しなければならぬが、皆について行けるかナーと心配だ。
然し、入学したからにはどんなことがあっても無事卒業せねば、出身区の姫路の恥だ。頑張ろう!
年齢でも、最低22才位から、30〜40才台位で所帯持ちの者もいるし、朝鮮鉄道・満鉄からも7〜8名位来ているし、総勢100名。之を2クラスに分けられて愈々勉強が始まった。

再び下宿生活

習技生の時は前記の如く、のんびり遊んで過ごしたが、今回は中間試験・卒業試験もあり、学科も高等数学もあり、また三角(関数?)もある。
材料強弱とか力学とか、全然初めての科目がたくさんある。英語も難しい。
よし、「下宿して一人静かに昼間の授業の復習と予習をしなければだめだ」神戸・長田に下宿した。今回は出張旅費が付かないから全部自弁だ。
教習所で昼間学んだ事を、夜はネジリ鉢巻きで、必死に勉強した。

結婚談

書き忘れたが、以前からちょいちょい縁談の話があった。特に、大勢の男子家庭で、亀井町の兄が養子に出たので、養子の話が相当あった。
その中には、結構な話で食指が動いたのもあった。だが母が、「政吉 政吉と頼りにしていたのに、政吉も養子に出てしもた。政一、お前だけは養子に行かずに老後をみてくれ」
と、再三再四言っていたので、「養子には行くまい、母を見てあげよう」と覚悟をしていた。
その池内美容院へ三木から一人、娘さんが見習いに来ていた。そのツテから現在の家内と、この春楠公さんで見合いをしていた。
政吉夫妻が極力褒めちぎり、「是非もらえ」としきりに勧める。自分はもう一つ食指が動かぬ。どうしたものか・・・?と種種考えたが結局「もらおう」と答えた。
その内高等運転科へ入学した。こうなれば結婚は卒業まで延期だ。従って、先方へ事情を話し、来年1月で卒業だから「それ迄、式は待ってほしい」と返答した。
半年も放って置くのだから、先方としては、娘の一生の問題だから種種考えた事と思う。

閑話休題

こうして、勉強・勉強で頭が疲れてくると、見合い写真を見て、彼女の顔を眺めて気分を紛らせ、また勉強だ。中間試験も終わって、まずまずの成績だ。
やがて正月も過ぎた。1月中旬に卒業試験とのこと。ラストスパートだ。卒業試験もようやく済んだ。アー ヤレヤレ 之でもう後は勉強は要らぬ。
鉄道局報で第5期運転高等科修了として、自分の氏名が出た時には全く嬉しかった。よくやったナーとつくづく思った。
こうして国鉄局報で、何処の誰と、全部氏名が発表されるのだ。大鉄局管内の者は全部これを見るから、保城から国鉄へ大勢行っていたが「石野は偉いなぁー」と評判になっていた。

結婚式

難関の高等運転科も昭和18年1月末に卒業した。もうこれで助役になれるのは時間の問題だ。
そこで前記の如く、結婚相手も決まっているし、先方も待ち兼ねておられることと、昭和18年2月21日の大安吉日を選んで結婚した。自分28才、妻22才。
それが現在の妻、絹子である。自分の頭は教習所で丸坊主にされていたので、ツルツルの坊主頭だ。保城のうす汚い納戸でいわゆる仏前結婚式だ。
新婚旅行。当時は、新婚旅行は一部の人がしていた。自分も勉強勉強と、教習所の勉強で頭が一杯だったし、旅行は考えていなかった。
式が終わり、市内西新町(日赤下)に政吉兄が借家を見つけていてくれたので、結婚式の宴酣(たけなわ)のうちに新郎新婦は西新町の借家へ・・・・ここで新婚第一夜を迎えた。
考えてみれば、旅行のスケジュールさえ考えておれば、パスを取れば何処へでも行けたのに迂闊だった。その後、家内にその事をチョイチョイ言われた。

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