2010年2月24日  皇太子殿下の「知命」記念会見での「忠恕(ちゅうじょ)」について

知命も忠恕も聞きなれない言葉だと思いますが、論語から出たことばです。

知命については以前に説明しましたので、そちらを参考にしてほしいと思います。

ここでは「忠恕」についてちょっとお話をしたいと思います。

皇太子殿下は自身の50歳の誕生日会見において、孔子の論語で「知命:天命を知る」とされる年齢に達する心境を問われると
天皇陛下が50歳の誕生日の記者会見で引用された「夫子(ふうし)の道は忠恕のみ」との言葉を紹介されました。

忠恕とは、自分自身の誠実さと、そこから来る他人への思い遣りだとし、
「他人への思い遣りの心を持ちながら、世の中のため、或いは他人のために私として出来る事をやっていきたい」と述べられています

当然と言えば当然ですが、論語も読まれているのですから一般人とは教養の程度が違います。
私はほんの一部を読んだだけで「その気:分かったような気持ち」になっていますが、論語の中身を理解しているとはとても言えません。


ここからは純粋に「論語の中の忠恕」について書きたいと思います。

吾が道は一以てこれを貫く。
曾氏曰く、唯。子出づ。

門人問うて曰く、何の謂いぞや。
曾氏曰く、夫子の道は、忠恕のみ。
(孔子が)私の道は一つの事で貫かれている。
その言葉を聞いた弟子の曾子は「その通りです」と言った。

孔子が帰った後、曾子の門人が「一つの事とはどういう意味ですか」と曾子に尋ねた。
曾子は「先生の道は≪忠恕:まごころ≫のみ」と答えた。

「忠」とは誠実であること、自分の良心に忠実であることです。
仮に、他人はだませたとしても、自分の心は決して欺けません。法律も規則も関係ない。
ただ己の心に忠実に生きる。そして、相手に誠意を持って相対する。これこそ忠ある生き方です。

「恕」とは他人を思いやる心の事です。
他人の身の上をあたかも自分の事として親身になって考えられる、優しく、温かい心のことです。

そう、誠実さと思いやりが自分自身の幸せをつくる一番の道なのです。自分がしてほしくない事は、絶対に相手にしない。
掃除をする人の気持ちになれば、ゴミをポイ捨て出来ないはずです。
あなたは人からウソをつかれたいですか?陰口を言われたいですか?そんなことはないはずです。

して欲しくない事はしない。して欲しい事をする。これが「恕」です。

またまた生半可な意見を書きますが「非攻:ひこう」ということばをご存じでしょうか?

「墨子:(中国は戦国時代の思想家です)」は、戦争には物凄く強かったそうです。
ところが、戦争はしたくない、人殺しはしたくないという考えを持っていたそうです。

なぜこんなことを書くかというと、強くなければ生きられなかった時代にあって「戦争は嫌いだ」という思想はなかな受け入れられなかったと思うのです。
ところが、これが非常に共感を呼んだんです。

「無理やり攻めない」とはどういう事かというと、「相手から攻められない限り攻撃しない」という考え方です。
その代わり、相手が攻めてきたら圧倒的な攻撃力で「灰燼に帰すまで攻める:滅ぼす」のです。
それを可能にするには、「誰が見ても分かるほどの圧倒的な攻撃力:軍備」がなければなりません。

思想的には孔子の考え方は素晴らしいと思います。 しかし、果たしてそれだけで生きられるのか・・・・考えてしまうのです。

世の中、皆が皆(みながみな)聖人君子ではありません。欲が深いのです・・・・他人が持っているものが欲しいのです。
力ずくでも奪いたいのです。 いつの世も、弱肉強食の時代なんです。

そして、歴史は「勝者が書いた歴史」が残るのです。敗者は歴史を書くことは出来ませんから・・・・
その時に私はこの墨子の思想を思うのですが、どう思われますか・・・・・・?


やはり中途半端な事は言わない方がいい・・・しっかり調べてから意見を述べるべきであると思います。
ここから「墨子」の考え方を一部紹介しますので参考にして下さい。
賢を緩くし士を忘れて、能くその国を以って存する者は、
未だ嘗ってあらざるなり
優れた人材を粗略に扱い、その進言に耳を傾けもしないで、しかも国を保ちえた君主など、居た例がない。
案居なきに非らざるなり、我に安心なきなり。
足財(そくざい)なきに非らざるなり、我に足心(そくしん)なきなり。
安心して住める家がないわけではない。安んじる心がないのである。
充分な財産がないわけではない。満足する心がないのである。
庫に傭兵なければ、義ありと雖も義なきを征する能わず。
城郭備全ならざれば、以て自ずから守るべからず。
心に備慮(びりょ)なければ、以て卒(にわか)に応ずべからず。
庫に武器の蓄え(備え)がなければ、かりにこちらに正義があったとしても
不義を討つ事は出来ない。城郭の備えが万全でなければ、守りきることはできない。
心に警戒を怠ったのでは、急場の事態に対処できない。
一人を殺さば、これを不義と謂い、必ず一(いち)死罪あり。
今、大いに不義を為し、国を攻むるに至りては、即ち非とするを知らず、
従いてこれを誉め、これを義と謂う。
人を一人殺せば、不義であるとして」、必ず死刑に処せられる。
ところが、他国を侵略するという大きな不義については非難しようとしない。
それどころか、かえってこれを正当な行為だとして誉め称える。
墨子は、戦争ほど大きな罪悪はないとして非戦論の立場をとっています。非常に現実的だと思うのです。
言の以て復(ふ)みて行うに足るものはこれを常にし、
以てあげて行うに足らざるものは常とするなかれ。
以て挙げて行うに足らずしてこれを常にするは、これ蕩口(とうこう)なり。
実行できることを口にせよ。
実行できない事を口にするな。
実行できない事を口にするのは、徒にこれを疲れさせるだけである。
古(いにしえ)の善きものは即ちこれを述べ、今の善きものは即ちこれを作るべし。
善の益々多からんことを欲すればなり。
先人の立派な教えを伝えるのは無論のことであるが、同時に新しい伝統も作りだして
いかなければならない。
良い事はいくらあっても多すぎる事はないからである。
義をなして能たわざるも、必ずその道を排するなかれ。
たとえば匠人(しょうじん)の斬りて能たわざるも、
その墨縄を排するなきが若(ごと)し。
義を実践して、うまくいかないからといって途中でやめてはならない。
大工をみるがよい。
材木がまっすぐに削れないからといって、墨縄を捨てたりするだろうか・・・・
「重要なことほど、ねばり強く実行しなければならない」ということでしょうか・・・?
君子は己を拱(こまぬ)いて以て待つ。
問わば即ち言い、問わざれば則ち止む。たとえば鐘の若く然りなり。
扣(たた)かば則ち鳴り、扣(たた)かざれば則ち鳴らず。
君子は万事控え目に振る舞う。
問われれば答えるが、問われなければ沈黙を守る。
それはちょうど鐘のようなもの、叩けば鳴り、叩かなければ鳴らない。

実は墨子は、これはやや一面的だとして、場合によっては叩かれなくても鳴らなければならない時もあるのだと語っている。
それはどんな場合かと言うと、組織がピンチに陥った時とか、トップが過ちを犯した時だという。


墨子は紀元前5世紀半ばに生まれ、紀元前4世紀前半に亡くなっています。
儒家の重視する「仁」は差別愛だとして、無差別平等の「兼愛」を主張、非戦論の立場から「非攻」を唱えました。

また、身分制度にとわられない幅広い人材の登用を訴え、勤労と節約倹約を主張しました。
この流派は「墨家」と呼ばれ、一時は儒家を凌ぐ勢力を形成したが、その活動は戦国時代が終わると急速に衰えていきました。


誰が見ても分かるほどの圧倒的な攻撃力を備えて、なお且つ戦争はしない。



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