2011年12月21日 水曜日 大鳥圭介について書きます。

(郷里の偉人:明治の元勲の一人です)大鳥圭介をなんとか一人でも多くの人に知ってもらいたいと思っています。

彼は兵庫県上郡町の皆坂という所の出身です。
幼くして神童の誉れが高く、現在の岡山県備前市にある閑谷学校(しずたにがっこう)で勉強した後、大阪の緒方洪庵の適塾で学んでいます。
その後、幕府の瓦解に伴い会津で官軍と戦い、最後は北海道五稜郭で官軍に捕えられます。

牢獄生活の後、大赦で赦免されて明治新政府に出仕します。
英語が堪能で、アメリカにも派遣され日本の近代化に大いに貢献して、男爵にまでなりました。

兵庫県に住んでいても彼の名を知っている人はごく少数ではないかと思います。
今回思い立って彼を紹介しようと思ってこのサイトを作っています。

 
兵庫県上郡町の庁舎前に建っています。  刀を携えています。

私が「大鳥圭介」の名前を知ったのは今から20年ほども前でしょうか・・・・手塚治虫の漫画に「陽だまりの樹」という作品があります。
半分史実に基づき、半分は創作という作品の中で出てくるのです。

名前が残るくらいの人ですから大変な秀才で、
生まれが(明治維新の立役者である)長州だったなら、日本の歴史は変わっていたのではないかと思います。
「花神」という司馬遼太郎さんが書かれた小説がありますが、その主人公が大村益次郎(村田蔵六:長州出身)です。
大村益次郎は近代兵制の創始者として靖国神社に銅像も建立されていますが、彼(大鳥圭介)はまさに正反対の生涯を送ります。

明治維新では旧幕府側につき、榎本武揚と一緒に江戸から今の北海道まで転戦するも連戦連敗・・・最後は五稜郭で捕らわれます。
江戸まで送られ牢獄に入れられますが、後に大赦を得て明治新政府に出仕します・・・彼の心情を考えると「男粋」としか言いようがないでしょう。

ただ、ここで新政府に出仕したことが彼の人生を変えます。新政府では、秀才の秀才たるところ面目躍如だったと思います。
英語は書ける・読める・話せる・・・・こんなことができるのは120年経った現代でもそんなにいないと思いますよ。
「花神」を一読してみて下さい・・・私の言わんとする所が分かっていただけるものと思いますので。

2012年2月11日(建国記念日) 今日はまじめにこの国の将来・あるべき姿を考える日だと思います。
そんな時は、昔の偉人を思い知ることも大事だと思いながらまったくこのサイトの作成が進んでいないのです。
実は、大鳥圭介のサイトを作る上で参考にしている本を他人に貸しているので、本が戻って来るまで作業はお休みです。

2012年9月15日 いよいよ思い切ってアップすることにしました。
http://www.town.kamigori.hyogo.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=6720

↑のHPアドレスは、上郷町が作成したものです。 ぜひご覧ください。

そして、以下の文章は「星 亮一」さんが書かれた「大鳥圭介」からほとんどを引用しています。
副タイトルは「幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者」となっています。

大鳥圭介は稀有な幕臣である。父祖の代からの旗本ではない。
天保3年(1832年)228日、播州赤穂の在、細念村の医者の家に生まれた。
はじめ備前岡山藩の閑谷学校に学び、ついで大阪に出て緒方洪庵の適塾で蘭学を修めた。
さらに江戸の蘭学者坪井忠益の塾で数年を過し、このころ医書から兵書に親しむようになり、本格的に軍事を学んだ。

慶応2年(1866年)幕府の直参に取り立てられ、開成所教授となる。
その後、フランス式操練を学び、出世街道をとんとん拍子に進んだ。
慶応35月以来、歩兵指図役頭取・歩兵頭並と進み、この年の暮れには歩兵頭に昇進した。
そのさなかに「鳥羽伏見の戦い」が起こり、
大阪から逃げ帰った
15代将軍・徳川慶喜は、上野の寛永寺に籠って謹慎、幕府はあっけなく瓦解した。

幕臣はどれも意気地がなかったが、大鳥は逃げなかった。
旧幕府歩兵約
500人を率いて江戸を脱走、日光から会津に向かい、大いに戦い、鬼怒川で土佐兵を釘づけにした。

その後会津城下に入り、会津の関門母成峠を守ったが圧倒的な敵の兵力の前に敗れ、
仙台に逃れ榎本武揚の艦隊で蝦夷地に向かい、薩摩の黒田清隆率いる新政府軍と死闘を繰り広げた。

新政府側には大村益次郎が参謀として活躍し、連戦連勝、靖国神社に銅像があるが、大鳥は連戦連敗だった。
しかし、「また負けたよ」と笑い飛ばす不思議な余裕があった。

大鳥は蝦夷地で敗れ降伏した。
極刑論がある中で敵将黒田清隆が榎本武揚と大鳥圭介の助命嘆願に奔走、二人は極刑を免れた。

大鳥は戦後新政府に出仕し、欧米出張を命ぜられ、
帰国してからは工部大学校校長、学習院院長から外交官に転じ、清国公使、朝鮮公使などを歴任し
79歳の天寿を全うした。

大鳥圭介伝の中に「楽天的敗軍の大将」と題する一文がある。
東京より仙台に至るまで大小数十戦、仙台から五稜郭に至り数戦を試みたが一度として
自ら兵を指揮した場合に勝った事はなし、始終負け通しでしたが、
不思議に負けるとニ
コニコして帰ってこられる。これをどう考えるべきか?
たしかに戦は下手な大将であったのだろうが、
この余裕こそが牢獄の暮らしにも耐え、薩長政権下での屈従をも跳ね返し、己の人生を切り開く原動力になったのではないか。

厳しい環境にあえぐ今日の社会においても、大島流の処世術は大いに参考になるだろう。
大鳥の生涯をたどり、その実像を紹介する。

  歴史は、「勝てば官軍負ければ敗軍(賊軍)」であるから、どうしても勝者の歴史になる。
幕府にも開国を進めた開明派の老中:安部正弘、幕政改革を断行した勘定奉行の小栗忠順(ただまさ)、
咸臨丸で航米した勝海舟、個人の力で国防軍の創設を考えた江川坦庵、蘭学を学び世界の情報を集めた大鳥圭介、
福沢諭吉など多士済々な人物がいたが、明治以降の歴史から消されてしまった。


幕府を倒した西郷隆盛、大久保利光、木戸孝允、岩倉具視、伊藤博文、山形有朋らを中心とする歴史になってしまった。
幕府を倒し明治政府を作った人間ばかりが称賛され、開国に当たって努力した人物は忘れられてしまった。
安部正弘など知る人は極めて少ない。
大鳥もまさにそうした範疇に入る人物だった。

「江戸末期・明治初期の政治家。兵庫の人。緒方洪庵・江川英竜らに蘭学・兵学を学ぶ。
戊辰戦争で五稜郭にこもったが降伏。のち清国朝鮮公使として日清戦争後の外交工作を行った。枢密顧問官。」(小学館「大辞泉」より)


 辞書にあるように、大鳥圭介が取り上げられることが多いのは、戊辰戦争や日清戦争においてです。
一方、大鳥圭介の特徴は、科学技術者・人材育成者として、常に現場の最前線にあり、
累積する問題に真剣に悩みながら官民の産業の土台を育てた実務者であったという点にあります。

 「偉人」と言うと、どこか遠い英雄めいたイメージがあります。
しかし、圭介の自著の回顧録、日記、書簡などを
(ひも)解くと、
彼は現代の我々と同じで、迷い、苦悩し、失敗しながら、そのときどきの最善を尽くした人であるということができます。

2003年から2004年にかけて滝めぐりをしていた時に行った彼の生家です。

 
 いまは「いきいき交流ふるさと館」となっています。

2012年12月9日 私の孫の「百日の食い初め」が(主人の実家があります)上郡町で行われたので、ついでに行って来ました。

上郡町の庁舎の前に立派な銅像が建てられています。
また、彼の生家はここから約6Kmの所にあり「いきいき交流館」として月2回資料が展示されています。

開館日は、第1日曜日と第3日曜日です・・・当日は第2日曜日だったため入られませんでした。

しょうがないので、そこからほど近くにある「皆坂の滝」に行きました。
ここは過去に3回来ていますが、やっと納得してコースを選ぶことができました。
コースが@ABとありますが、初心者には3番目のコースが一番無難でしょう。

途中道なき道が崩落しているところもありますが、歩くことはできます。
雨がなかったので水量は少ないですが、今の時期ならこれもしょうがないかもしれません。

↓の写真は8年前に来た時に写しました。
今回より水量は多かったようですが、これ以上はなかなか望めないと思います。
とりあえず今回の大鳥圭介の紹介は、これにて一件落着とさせていただきます。

上郡町にある「皆坂(かいさか)の滝」です。

   

もうちょっと自分の文章で書こうと思いましたが、
考えがまとまらないのと、ズルズルといつまで経ってもアップできないから諦めたというのもあります。
上郡町のHPとか検索をかけるといくらでも関連のサイトがありますので、以下ご自分で確認してみてください。


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