2012年2月24日 千姫のサイトを作ろうと思っています。

織田信長の妹「お市の方」は絶世の美女として知られていますが、そのお市の方の三女:江を母に持つ千姫は
おばあちゃん(お市の方)の美しさをいちばん受け継いでいたとも言われています。ですから当時の浮世絵にも描かれるのです。

切手で代用しています こんなのもありました 羽子板になった千姫です 忠刻と並んで「相思相愛」を見せつけています?

千姫は徳川家康の孫娘に当たり、父は第2代将軍の徳川秀忠、母は織田信長の妹:お市の方の三女「江」です。
ですから、第3代将軍:徳川家光は千姫から見たら弟に当ります。

お市の方は兄、織田信長の政略結婚の「道具」として、浅井長政と結婚します。
そこで生まれたのが長女:「茶々(後の淀君」)、次女「お初の方」、三女「お江の方」です。
戦国時代の定めとして、それぞれが不思議な人生を歩むわけですが、ここでは「千姫」に絞ってその家系を見てみたいと思います。

千姫の生きた時代は、豊臣政権から徳川政権へ移る時代です。
「大阪冬の陣」から「大阪夏の陣」を経て、豊臣家が滅亡(秀頼、淀の方は自害)します。
千姫は当時19歳。7歳で秀頼に嫁いで(もちろん政略結婚です)大阪城で共に死ぬ運命だったのですが、数奇なことから家康の元に帰りつきます。

余談ですが、私はこのサイトを作っていて、姫路市はもっともっと「千姫」「本多忠刻」をセットにして売り出して行くべきだと思います。
なにしろ、この二人はこの時代にあって政略結婚でなく
相思相愛で結婚したんですから!!
しかも千姫は絶世の美女で、本多忠刻(ほんだただとき)は偉丈夫(今でいうイケメン)だったんですからこれ以上ないカップルです。


余談ばかりですが、この時代の身分制社会について考えてほしいのです。
本多忠刻の妻である千姫は、将軍秀忠の長女であり家康の孫です。 それにひきかえ本多忠刻は将軍家の家臣です。

例えば、千姫の妹和子(まさこ)は時の天皇の正室として入内(じゅだい)しましたが、その入内前にすでに天皇が側室に子供を産ませたのです。
それに対して和子(まさこ)の父親である将軍秀忠が烈火のごとく怒って、有体に言えば「怒鳴りこんだ」のです。
「なめとんのか!! 正室が輿入れする前に側室に子供を産ませるとは・・どういうつもりや!!」
天皇とて返事が出来ません。「申し訳ございません、正室が輿入れしたら側室には手を出しません・・・」言わざるを得ません。

これを本多忠刻に当てはめるとどうなるでしょうか・・・・?
相思相愛であっても油断は出来ません。もし子供が出来なかったらどうする?  
当時後継ぎがいなかったらお家は断絶ですよ!!  当然家臣は路頭に迷います・・・・それではその時、側室を持てますか?

仮に千姫の方から「良かれ」と思って側室を持つことを持ちかけても、ひょっとして邪推して親父(将軍:秀忠)おじいちゃん(家康)に手紙でも出したら・・・・
(現実には家康は既に亡くなっていましたが) 「本多忠刻、ちょっと江戸表へ出ておいで・・・質問があるんじゃ」

言われた方は「ひょっとして蟄居でも言いつかるのではないか・・・」気が気ではありません。
なにしろ、この時代は我が身に何事かあった場合は自分一人では済まないのです。
親・子供・兄弟・親族一同・家来その他、所領に住む者全員が「運命共同体」なのですから・・・・・下手をすると「皆殺し」です。
天皇でさえ将軍に頭が上がらないのですから、家臣の本多忠刻が戦々恐々となるのも想像に難くないでしょう・・・?
結果として、千姫は「勝姫」という子宝に恵まれます。


そこで提案です。 
  「姫路に来たらエエ事あるでぇ」というタイトルで、美男美女コンテスト「千姫:忠刻 コンテスト」を開催するのです。
詳細の「案」はあるのですが、ここでは割愛します。


本題に戻って、千姫は7歳の時に政略結婚によって豊臣秀吉の嫡男:秀頼に嫁ぎます。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いによって豊臣家は実質権力者から転落し、徳川家の世となります。
更に大阪冬の陣・夏の陣を経て、秀頼・淀の方は自刃し豊臣家は滅亡します・・・・。

千姫は大阪夏の陣で豊臣家の一員として秀頼と一緒に死ぬ運命だったのですが、奇跡的に命拾いをします。
そして、江戸の父親(将軍:秀忠)の元へ帰る途中に、本多忠刻と出会うのです。
本多忠刻は大変な美男子(偉丈夫)で、今でいう「イケメン」だったそうです。しかも、宮本武蔵創始の「二天一流」の使い手でした。

さらにさらに、生まれはというと「名門中の名門」なんです。母(ゆう姫)は、徳川家康の長男である信康と、織田信長の娘:徳姫の娘です。
なお、徳川家康の長男信康は21歳の時、織田信長の命令で「切腹」を命じられて死んでいます。
その忘れ形見である娘の「ゆう姫」を母に持つということの意味を感じてほしいのです。

なにはともあれ、千姫は本多忠刻と結婚して姫路へ来ることになるのです。
そして幸せな時代を過ごし、子宝にも恵まれ、人質時代には考えられなかった幸せを実感します。

初秋の 風に簾を巻き上げて  (本多忠刻詠む)

軒場におほふ 竹の葉の露   (千姫詠む)

この歌は、
当時本多忠刻が、広島城の引き渡しに功があったということで、将軍秀忠が大安宅船を一隻預けるという慶事がありました。
この安宅船というのは、かつて池田輝政が建造し池田家から将軍家に献上したもので、本多家にとって大変名誉な事だったのです。
さらに、千姫が長男「幸千代(こうちよ)」を出産したので、姫路の城下は祝賀ムード一色で大宴会を催したのです。
その時に詠まれた歌ですが、千姫は姫路ではこの一首しか残していないそうです。



しかし、夫本多忠刻が31歳(千姫は30歳)で亡くなり、千姫は父の住む江戸城へ帰り住むこととなります。
江戸には弟の家光が第3代将軍として彼女を迎えます。 幸い、家光と千姫は非常に仲が良かったそうです。

このお話はどこまで書けばいいのか分からなくなりますが、
織田信長から豊臣秀吉を経て徳川家康の時代になっても、結局残ったのは女たちが産んだ子供たちです。
複雑に絡み合った「姻戚関係」でお互いの安全を確保しようと考えたんでしょうね・・・・。

それにしても、お市の方に三人の美少女が生まれなかったら・・・・歴史は変わっていたでしょうね。
織田信長が明智光秀に暗殺されなかったら、秀吉が家康より長生きしていたら・・・・「たら」は止めましょう。キリがありません。

せめて、自分を信じて「今できる事」をしっかりやることに尽きると思います。
生き残った者が勝者なんですから!

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