「一人の道」歌詞

ある日走ったその後で  僕は静かに考えた
誰のために走るのか   若い力をすり減らし

雨の降る日も風の日も  一人の世界を突っ走る
何のために進むのか   痛い足を我慢して

大きな夢は唯一つ   五つの色の五つの輪
日本のためのメダルじゃない   走る力の糧なんだ

父さん許して下さいね   母さん許して下さいね

あなたに貰ったものなのに   そんな命を僕の手で


見て欲しかったもう一度   表彰台の晴れ姿
だけど体は動かない   とってももう走れない

これ以上・・・・走れない

この歌(曲)が作られた背景を知って欲しくて、以下の文章を書きます。

1964年(昭和39年)10月21日、東京オリンピックの最終日を飾る男子マラソン競技での事です。
前人未到のオリンピックマラソン二連覇を達成した「はだしのアベベ選手」に続いて国立競技場に入ってきたのが円谷幸吉でした。

しかし、円谷選手は最後のトラック争いで、イギリスの「ヒートリー」に追い抜かれてしまい、惜しくも銅メダルに終わりました。
(一方、優勝候補と期待された君原健二選手は8位だったと思います。)

当然、円谷選手は多くの国民から「次のメキシコオリンピックでは、今度こそ金メダルを!」と期待されました。
彼の生真面目で純朴な性格から、且つ公務員である自衛隊員(自衛隊体育学校)として、国民の期待に応える責務も感じていたと思います。

結果的に円谷選手は4年後のメキシコオリンピックの年の1月に「自殺」するのですが、そこへ至るまでの心の葛藤はあまりにも悲しいものでした。
彼(当時23才)はオリンピックの後、同郷の女性(同い年だったと思います)と結婚する筈でした。
ところが、「世間が許してくれなかった」のです。「次のメキシコオリンピックで金メダルを取ってから結婚」したらいい。

今では考えらえない事ですが、こんな自己犠牲の精神の上に立たされていたのです。
当然女性は焦ります・・・・思い悩んだ事だと思います(双方共に)。
そして女性は、彼(円谷幸吉)から今までもらったプレゼントを段ボールに入れて彼の家の前に置いて帰ります。
待てなかったのです・・・・別れの挨拶でした。

正月休暇で帰郷した彼は、その「前年の12月に女性が結婚」した事を知りました。
失意の心で正月休暇を過ごした後、東京の官舎に戻ってきてすぐに彼は「自殺」したのです。頸動脈を剃刀で切断したのです。


その時に彼が両親あてに書いた手紙が後日公表されたのですが、とても涙なしには読めませんでした。

父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。克実兄、姉上様、ぶどう酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそ飯、南蛮漬け美味しゅうございました。
喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴きありがとうございました。モンゴイカ美味しゅうございました。
正男兄、兄上様、お気を煩わせて大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、
恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な社会人になってください。

父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。
気が休まることもなく御苦労、御心配をおかけいたし申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

なお、この手紙につきましては「三島由紀夫」が日本人の心を表していると絶賛しています。

東京オリンピックでは屈辱の8位に終わった君原選手は、≪国の為ではなく、自分の為、そして円谷選手の為に≫と走ってメキシコオリンピックでは銀メダルに輝きました。
時を経て、有森裕子選手が言った「自分で自分を誉めてやりたい」は、後々まで残る名言となりました。

この言葉の裏側には、周囲の期待に応える重圧がいかに大変かと云う事を如実に云い現わしていると思います。


人生をマラソンに例える事があります。時として次々と追い抜かれ、そしてゴールがあまりに遠く見えて、もう走るのを止めたくなる事だってあると思います。
でもそんな時、何のために走るのか、誰のために走るのか・・・そんな事を問いかけ直すのもいいかもしれません。

そう、その答えは、走っている自分しか見出せませんから・・・・・ そして、ゆっくりでも「一人の道」を走り続けたいものです。





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