2012年3月20日 火曜日(春分の日)   「震災がれき」について

震災がれきの被災県以外での広域処理の広がりについて、新聞などの報道を見ると徐々に引き受けする所が増えているようです。
大変喜ばしい事だと思うのですが、すでに震災から1年以上経っているのです。
それを考えると、「遅すぎる」と感じてしまうのですが、皆さんはどういうふうに思われますか?

↓に書いているのは、昨年12月1日に私のHPに書いた文章です。

震災が発生してからもうすぐ9カ月になろうとしていますが、なにがどうなっているのかよく分かりません。
・原子炉は本当に「冷温停止」にできるのか、安心できるのか。
・なにより震災の被害者の生活はどうなっているのか、風評被害を含めて考えなければなりません。
・復興への支援はどうなっているのか? 政府の支援策は十分なのか? 増税も含めて考えなければなりません。

・もうすぐ年末です、寒くなってきました。それでもそこで生活しなければならない現地の人々はどんな気持ちなんでしょうか?

そんな中、東京都の石原慎太郎都知事が問題提起をしています。
「がれきの問題で野田首相はなんで出てこないんだ。自分のことばで言ったらいいんだよ」

東日本大震災で発生した災害廃棄物(がれき)の広域処理を東北以外で唯一受け入れている
東京都の石原慎太郎知事は11月8日、川崎市内で記者団にこう語って、
原発事故での「放射能汚染のおそれがあるがれき」と「一般のがれき」の違いについて、国民向けに説明をしない首相を批判した。

川崎市で開かれた首都圏の知事と政令市長による「9都県市首脳会議」後に語った。



去年の12月の時点ですでに東京都では震災がれきの受け入れが始まっているのですが、今年3月になってやっと他県での受け入れが始まったのです。
で、私のぼやき(自己満足の独り言)が始まるのです。

静岡県島田市が震災がれきの受け入れを正式に表明した3月15日、千葉県市川市と鳥取県米子市も受け入れを表明したそうです。
その他、九州でも受け入れを求める発言が相次いで、ようやく広域処理が進み始めた・・・・。

今日(3月21日)の読売新聞の夕刊に震災がれきの広域処理云々の記事が載っていました。
≪「がれき」引き受けは日本人なら当然だ≫
ところが、静岡県島田市長が受け入れを表明してから「脅し」のメールがたくさん送り届けられているそうです。
島田市の市長は「反対派の脅しに屈せず、今こそ自治体のトップが決断すべきだ」と呼びかけています。
反対メールのほとんどが、市外・県外からのものだそうです・・・自分の意見(我儘)を通すためなら手段を選ばないということでしょうか!?

日本人として恥ずかしくないのか!!

同じく、市川市の市長は「助け合いの精神」と言っているらしい。
それに対して環境省の幹部は「いくつかの自治体がまとまって動き出せば≪隣がやるならうちもやろう≫という自治体が出てくるだろう」と言ったそうです。

言葉を換えれば「隣が始めるまでは≪助け合い≫はしません」と聞こえませんか?!  
少なくとも私にはそう聞こえるのです。

責任は負いたくない。
最初に「震災がれきを引き受けます」と云うと、市民等受け入れ反対派の反発が怖いのです。
しかし2番目になると「あそこがやったから私もそれに倣った」と言い訳が出来るのです。
逃げ道がないと何もできないのです・・・「責任を負いたくない」これが本音だと思うのです。

ですから「周りを見る」のです。
他人の後ろを歩くと「安心」なんです。一人では何も決められないのです。危険負担はしたくない。
嫌な事をすると選挙に負けて「落選」するから、権力にしがみつきたい人は他人に嫌われることはしたくないのです。

先例主義。
まだ誰もやったことがないことはしない・・・最初の人にはなりたくないのです。
無難に、無難に「我が身が可愛い」のです。
気持ちは分かりますが、政治と言うのは「決断する事」であって、どんなに困難な事でも「決めなければ」なりません。
それが「51:49」であっても、決めなければならないことは決めなければならないのです。
始めなければ始まらないのですが、決めなければ始められないのです。

まして今回は「想定外」の大震災で、あれだけ「絆:きずな」がどうのこうのと言ったのに、我が身に話が及ぶと「我関せず」なんです。
「痛みを分かち合う」などと言うのは聞こえの良い「建前:たてまえ」なんです。
本音は責任を負いたくないのです。


衆議院選挙云々で、大阪維新の会が圧倒的な人気を誇っています。
ひょっとして、今解散総選挙があったら自民党・民主党以上の勢力を得るかもしれません。

なぜでしょう・・・・・・方針がはっきりしているからです。

大阪市は関西電力の筆頭株主として、「原発廃止」を株主提案するそうです。
もちろん関西電力は原発全廃には応じられないとする姿勢ですが、橋下市長は「戦略のない原発ゼロという提案ではない」としています。
ここが私のいう「管首相:市民運動家」と橋下市長(大阪維新の会)との違いです。
ちゃんと「次の一手」を用意してから意見を出し、議論しようというのですから「民主的」ではありませんか。

民主党の前党首「管首相」は市民運動家から総理大臣になりました。
市民運動家と言うのは「いちゃもん」をつけるのは上手です。相手を困らせるのです。相手を困らせて我が身を強く見せるのです。
しかし権力を握った時に、管首相(市民運動家)には「次の一手」が全くなかったのです。

「そしたら(そうしたら:権力を握ったら)どうする」
この答えを持っていなかったのに、いきなり(予想外に)権力を握ってしまったのです。
ここで「市民運動家」の限界が露呈してしまったのです・・・・・嗤いますよ。

今、民主党に対して国民の反発が強いのは、期待が強かっただけに「こんなはずではなかったのに」という気持ちが強いからでしょう。


民主党のやっていることは、仕事はしたくない・・・「作業ならします」が本音でしょう。

私が云わんとしている事を分かって欲しいのですが、仕事と作業は「似て非なるもの」です。
仕事とは「責任を負って」するものですし、作業は「横並び:先例主義:指示待ち」でいいのですから責任を負いません。

政治家を志したなら「仕事」をしなければなりません、「作業」では役に立たないのです。

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