日本国民に告ぐ U

現代知識人の本能的自己防衛

現代知識人の多くはこのような観察を重要なものと思わない。それどころか、軽視する。
江戸時代とは「士農工商という厳しい身分制度に基づいた封建制度の下、庶民は苦しい生活を余儀なくされていた」、
明治時代とは「猛烈な富国強兵策と不平等条約の下、庶民は困窮していた」という考え方に縛られているからである。

彼等は「封建制度は悪」という、明治以来の日本を支配した欧米歴史学、
あるいは「富国強兵は侵略戦争につながった諸悪の根源」という東京裁判史観に縛られているからである。
確かにヨーロッパを始め世界の封建制度とは、おしなべて専制君主が人民を圧政下に置き、農民を農奴のごとく使い、搾り取れるだけ搾り取るというものであった。
国民のほとんどを占める農民はいかなる希望も持てず、どん底の闇を這いずり回るような生活をしていた。

欧米流の歴史学を学んだ現代知識人にとって、幕末から明治初期にかけて来日した外国人の観察は矛盾に満ちた物に映るのである。
日本の封建制度が他国の封建制度とは似ても似つかないものであったとは考えずに、単なるオリエント趣味の発露に過ぎず、珍しい骨董品を誉める程度の他愛ないものと思うのだ。
あるいは、当時の西欧で流行していたジャポニズム、という眼鏡を通して形成された美しい幻影に過ぎず、日本や日本人の実像を示すものではないと考える。
人によっては、そういった観察の底には、抜き差しがたい欧米優位思想があり、日本をたたえるのは愛玩動物を愛撫するようなもので日本蔑視の一形態にすぎないとまで考えるのである。

実は江戸時代末期に来日した欧米人も同じく、日本の封建制度を見て衝撃を受け、歴史学の常識との矛盾を感じ悩んだのだ。
然し彼らには目の前の現実という「動かぬ証拠」があったから、日本の封建制度の異質を信じざるを得なかった。
現代知識人には「動かぬ証拠」がないからいつまでも疑惑の目を向けるのである。それに、知識人にとって自己肯定は、鞭をさらすことであり、
自己懐疑こそが知的態度なのだ。と同時に物事を「白」と断ずるのは危険、「灰色」というのは安全、という事を知る知識人の本能的自己防衛でもあるのだ。

実はこのような態度は現代知識人に固有のものでもない。イギリス人の詩人エドウィン・アーノルドが、先述のいささか褒めすぎとも思える絶賛を述べた翌朝の日本各紙における論説は
アーノルドが日本のやり遂げた政治、経済、軍備の躍進に触れず、芸術、自然、人々の優しさや礼節と言ったものばかりを称賛したのは、日本に対する一種の蔑視ではないかと憤ったのである。

また、明治に長年にわたり日本に暮らしたジャパノロジストのチェンバレンはこう書いている。
「新しい教育を受けた日本人のいる所で、諸君に心から感嘆の念を起させるような、古い奇妙な、美しい日本の事物について、詳しく説いてはいけない。
一般的に言って、教養のある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている。彼等は過去の日本人とは別の人間、別のものになろうとしている」。

同様の事は、明治9年に東大医学部創設期のお雇い教師として来日して日本人と結婚、30年近くにわたり日本に滞在したドイツ人医師ベルツもこう書いている。
「現代の日本人は自分自身の過去については、もう何も知りたくはないのです。それどころか、教養ある人達はそれを恥じてさえいます」。
彼が教養ある紳士達に日本の歴史について尋ねると、あるひとは「いや、何もかもすっかり野蛮なものでした」と答え、
あるひとは「我々には歴史はありません。我々の歴史は今からやっと始まるのです」と断言したのである。

明治の頃にせよ終戦後にせよ、何か新しい価値観に立って進もうとする時、日本人は過去を完全に捨て去り猛進しようとする性向があるようである。
終戦後の大ヒット≪青い山脈≫に「古い上着よさようなら、さみしい夢よさようなら」とあるようにだ。無論それはある意味で仕方ない事だ。
その時代の潮流に乗り、国民一丸となって突き進む事もときには大切だからだ。しかしかつては、そのようなバランスを欠きがちな国民性に歯止めをかける精神、古くは「和魂洋才」などがあった。
ところが戦後のアメリカ化の過程ではついぞ「和魂米才」は耳に入らなかった。あたかも米魂米才を理想として目指しているかの観があった。

外国人を魅了した日本文化の美徳とは何か

それはともかく、幕末から明治にかけて来日した外国人の言葉によると、日本は江戸時代に、今日に至るまで日本以外の世界のどこにも存在しなかった、
貧しいながら平等で幸せで美しい国を建設していたのである。こう言った見聞録に対する現代知識人の礼召集時に私は与しないが、百歩譲ってその言い分を認め、
そのような印象が単なる幻影だったとしても少なくとも当時来日したほとんどの外国人に、そのような幻影を抱かせるような現実が、当時の日本にあったことは間違い。

その現実とは何か。明治4年に来日したオーストリアの長老外交官ヒューブナーはこう断言する。
「封建制度一般、詰まり日本を現在まで支配してきた気候について何と言われ何と考えられようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。
すなわち、ヨーロッパ人が到来した時からごく最近に至るまで、人々は幸せで満足していたのである」。
全ての来日外国人がこの想像しにくい状況に瞠目し書き記したのである。

無論、幸せとか満足感に基準はない。当時の欧米は産業革命の真っただ中でありその歪みも出始めていたが、その頃の自国の人々の表情と比べての印象である事は否めない。
それにしても、表情に現れた幸せや満足感をすべても人々が見間違うなどということがあり得ようか。人々が健康そうで礼儀正しく正直だった事
鍵のない部屋や机から何も盗まれなかった事、街頭や農村で観た人々g子供から人足、車夫にいたるまでみな、冗談を言い合っては笑い転げていた事、これらは現実ではないのか。
苛斂誅求にあえいでいたはずの当時の農村で、人々が貧しいながら皆幸せそうにしていた遠くの外国人が言う時「苛斂誅求にあえいでいた」の真偽を疑うことが先決ではないのか。
日本をよく見て歩き、将軍家定に謁見までしたハリスが、「将軍の服装は質素で、殿中のどこにも金メッキの装飾はなく、柱は白木のままで、火鉢と私のために用意された椅子と
テーブルの他には、どの部屋にも調度の類が見当たらなかった」と書いたのはハリスの幻影だったのか。
彼が「日本には冨者も貧者もいない。正直と質素の黄金時代を他のどの国より多くここに見出す」と書いたのは錯覚だったのか。

世界のどこの地域でも成し遂げられなかった、かくも素晴らしい社会を作った日本人の卓越した特性を、なぜ日本人は誇りに思わないのだろうか。
日本以外の国であったら、世界が目を見張った日本文明に関し、歴史教科書で誇り高く詳述するであろう。世界の中で品格を持って生きていくためにどの国民にとっても必要な
「祖国への誇り」をはぐくむために利用するだろう。
現代日本の教科書では無論ほとんど一切触れられていない。前述のように歴史家がそれを嫌い、知識人がそれを忌むからである。自らを自慢する事はしたくないという、
日本人の謙虚さもそこには働いている。祖国への誇りを子供達にはぐくむのは軍国主義につながりかねない、愛国教育ではないのか。などと本気で心配したり、近隣諸国条項を考慮したりする。

近隣諸国条項とは、1982年に教科書検定基準として定められたもので、平たく言うと「中国、韓国、北朝鮮を刺激しかねない叙述はいけない」という政治的なものである。
歴史的あるいは国際的な客観性より外交を優先するという代物だ。無論、これら三国にそのゆおな滑稽な規定はない。

昨春、私はお茶の水大学を定年退官したが、定年前の十数年間、専門の数学以外に、1年生対象の読書ゼミを年1コマか2コマ担当していた。
よく新入生にこう尋ねてみた。「日本はどう云う句ぬと思いますか」。彼女たちの答えには、表現の差こそあれ、「恥ずかしい国」「胸を張って語れない歴史を持つ国」などと否定的なものが多かった。
理由はほぼこういううものだった。
「明治、大正、昭和戦前は、帝国主義、軍国主義、植民地主義をひた走り、アジア各国を侵略した恥ずべき国。
江戸時代は士農工商の身分制度、男尊女卑、自由も平等も民主主義もなく庶民が虐げられていた恥ずかしい国。
その前はもっと恥ずかしい国、その前はもっともっと恥ずかしい国」。そう習ってきたのである。そう理解することでやっと大学合格にまでこぎつけたのである。

私は彼女達がかくもひどい国に生まれた不幸に同情した後、必ず聞くことにした。
「それでは尋ねますが、西暦500年から西暦1500年までの十世紀間に、日本一国で生まれた文学作品が、その間に全ヨーロッパで生まれた文学作品を、
質および量で圧倒しているように私には思えますがいかがですか」。これで学生達は沈黙する。
私はたたみかける。「それでは、その十世紀間に生まれた英文学、フランス文学、ロシア文学、をひっくるめて2つでいいから拳げて下さい」。
学生は沈黙したままだ。私自身、『カン夕べリ寸物語』くらいしか思い浮かばない。

 私は学生にさらに問う。「この間に日本は、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集、源氏物語、平家物語、方丈記、徒然草、太平記……と際限なく文学を生み続けましたね。
それほど恥ずかしい国の恥ずかしい国民が、よくぞ、それほど香り高い文学作品を大量に生んだものですね」。理系の学生がいればさらにたたみかける。
「世界中の理系の大学一年生が習う行列式は、ドイツの大天才ライプニッツの発見ということになっていますが、
実はその10年前、元禄年間に関孝和が鎖国の中で発見し、ジャンジャン使っていたものですよ」。学生は完全に沈黙する。毎春の授業風景であった。
 これは私の学生のみに見られる傾向ではない。世界数十カ国の大学や研究機関が参加する「世界価値観調査」によると、
十八歳以上の男女をサンプルとした2000年のデータだが、日本人が「自国を誇りに思う」の項で世界最低に近い。
「もし戦争が起こったら国のために戦うか」は15%と図抜けて世界最低、ちなみに韓国は74%、中国は90%である。恥ずかしい国を救うために生命を投げ出すことなどありえないのである。

ここまで書いて、ちょっと気になってインターネットで「日本国民に告ぐ」で検索をかけてみると「ありました:載っていました」
賛否両論が書いてあるのですが、各論を部分的に反論していると感じました。
私も書いてある事が全て正しいとは思いませんが、少なくとも現代の日本を的確に言い当てていると思います。

「日本国民に告ぐ T」で書いてある、誰もがモラルを失いつつある国」の記述はまさに反論の余地はないと思います。
という事で、反論はあるという事を知った上でこの続きを書いて行きたいと思います。


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