2013年3月19日

「みっともない!」の続編を書きます。

「こころ、心:真心」が失われている時代。

物質文明がドンドン豊かになって、私(現在62才)が子供のころは夢であったことが現在では「当たり前」になっています。
一家に一台の車を持つのは当たり前。
現在では(地方を中心に)複数台の車を持つのが当たり前で、一人一台の車を持っているのも珍しくない。
我が家も例外ではありませんが・・・(苦笑)。
 

電話も個人個人が専用の携帯電話を持っている。
その結果、電話代が高額になって払えない。
携帯からネットの「闇サイト」にアクセスして被害者になる(売春:買春)等々も日常茶飯事です。

「振り込め詐欺」などは、昔では考えられなかったことです。
手軽に何でもできるようになると、それを「悪用」しようとする人間が出てくるのです。
最近では、振り込ませた金を引き出す役割を中学生が小遣い稼ぎと称してやっている。
まったく罪の意識がない。「騙されるやつが悪い」などと、悪たれをぬかしている。  

「便所(お手洗い)」は既に「死語」になって、「トイレ」と呼ばれるようになっている。
そのものズバリに表現すると、「語感が悪い」程度の発想で「便所」ということばを避けるのでしょう。
同じようなことばに「つんぼ」「めくら」「おし」・・・などがあります。

分からないことばを使えば、その差別から逃れられると思っているのでしょうが、それは自己満足以外の何物でもありません。
そこまで考えずに使っている方が殆どだと思いますが、
簡潔に物事を云い表して何がいけないのでしょうか・・・差別とは別次元の問題だと思いますよ。

ところで、「トイレ」は水洗式が当たり前で、最近はお手洗いのドアを開ければ自動的に便器の蓋(ふた)が上がって、
用が済んで立ち上がったら自動的に水が流れるようになってきている。

和式のお手洗いなど、最近では見たことがない。(公衆トイレなどでは残っています)
学校で児童が和式のお手洗いを使えないと云う記事を読んだ時は、「時代はここまで来たか」と唖然とした。

 PCと云う文明の利器が、漢字の「書き取り」を死語にしてしまった。
PCを利用すればものすごく簡単・便利なので、敢えて不自由(辞書を引いて調べる)なことはしない。
さらに、ネットと云う化け物が出現してからは、想像もつかない事件・事故が発生している。
「諸刃の剣(もろはのつるぎ)」であることを意識して使わないと、被害者にも加害者にもなってしまう。
時代は猛烈な勢いで動いている。

 

便利になることは嬉しいし、否定するつもりはありません。
しかし、経済発展で「便利(嬉しい)」が進行して「豊か」になると、次は「当たり前」の時代になるのです。
そして、「当たり前」がどんどん進んで行って遂に「我儘(わがまま)」の時代になってきたのが今の日本ではないかと思うのです。

金さえ出せば何でもできる。
「嬉しい」とか「感謝」という気持ちがまったくないのです。

さらに、「なんでも自由」と云う風潮が蔓延しているが、社会における自由とは「限られた自由」でしかないのです。
人を殺す自由はないのであって、捕まれば死刑になるのです。
人を好きになる自由はありますが、相手が自分を好きになってくれないからと云って強姦する自由はないのです。
当たり前のことです。
自由は限られた範囲でしか認められていないのです。

それを勘違い(無知で全く理解できていないものも含めて)して、「何でも自由」と思っているのが現在だと思うのです。
それは「無法」であって、自由とは全く異なるものなのです。
自由には責任が伴うのです。

選挙に行かない自由があるのなら、逆に投票に行かなかったら選挙権(投票する権利)は束縛(剥奪)されなければなりません。
私は、自由だけを云う(義務を果たさない)なら「ペナルティ」も已むを得ないと思っています。 

先の「自転車による事故」の件に話を戻すと、私も信号無視はします。
自動車が走っていない交差点で、必要以上に待つのは苦痛です。
しかしそんな時でも、いざ事故が起こってしまえば「自己責任」です。
ルールを守らなかった自分が悪いのであって、決して「他人のせい」にしてはいけないのです。
100%自己責任で行動しなければならないのです。
それこそ不公平であって、法治国家としての根本が問われます。
ルールを守る人は法律上の保護を受ける権利を有するが、ルールを守らない人は基本的に保護を受ける権利はないのです。

 

日本人は「真面目である」「ルールを良く守る」「誠実である」云々・・・・・。

日本人の性格を物語る言葉が多くありますが、「日本人」は一朝一夕にできたのではありません。
日本人は
1500年もかかって、「日本人になってきた」のであって、初めから「日本人であった」のではないと思っています。
長い長い日本人の歴史が日本人を作ってきたのです。

特に「武士社会」の果たした役割は非常に大きいと思っています。
新渡戸稲造の「武士道」に書かれていますが、社会の上位にある人間の果たすべき役割を説いたものが「武士道」だと云えます。
(これについては、本を完全に読み終わってからもう一度書きたいと思っています。) 

ところが残念なことに、最近は「日本人」はものすごく減ってきたのです。
そしたら、今自分に何ができるでしょうか?
何もできないと思ってしまえば、そして関心がなければ、物事は前に進みません。
「何ができるか」と考えることがスタートだと思うのです。

 

例えば、身近な乗り物である「自転車」について考えてみて下さい。
現実には、ルールを守って走っている方が少ないのではないかと思います。

右側通行は当たり前。
夜間電気を点けないで走るのは減りましたが、まだまだ無灯火は少なくありません。
街灯などの普及で周囲が明るいから電灯を点けなくても「見える」と言い訳する。
2列で並んで走るのは、中学生・高校生にとって当たり前です。
子供(幼児)を2人・3人乗せて走るのは、主婦にとって当たり前です。
最近では車道を走らずに、歩道を「どけどけ」と走り抜けるのも当たり前です。
なかには(かっこよさを求めて)ブレーキのない自転車で走る人間もいるそうです。

駐輪場で、ランダムに(我先に無秩序に)停めるために、後から来た人が自転車が停め難くても知らん顔です。
自転車を停めたかったら「他人(ひと)より早く来い」と言っているようなもんです。
自分さえよかったら、他人(ひと)はどうでもいいのです。

ちなみに、私は駐輪場では後から来る人のために整列して停めています。
先に停まっている自転車の幅をちょっとだけ狭めるのです。
そうすれば、少なくともあと何台かの(数台の)自転車が停められるのです。

簡単な事ですが、誰もしません。
後から来て見ていても「知らん顔」をします。
「関心がない」のか、「我関せず」なのか、「邪魔くさい」のか、「恥ずかしい」のか、
それとも「アホ」なのか・・・・考えたくありませんが思ってしまいます。

 

 これから真面目に考えて「日本人を再生」して行かなければなりません。

その第一歩は、本を読むことだと思っています。
昔の人々の苦労話を知ることです。
自分がいかに恵まれているのかを知ることです。


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