2012年4月20日 「ほどほど」も「一生懸命」も・・・・

今日の読売新聞の「論点」という記事から紹介します。なお、サブタイトルは「働き方は一つじゃない」です。

新年度がスタートし、社会人となった若者を含め、多くの人が気分新たに仕事に励んでいるだろう。
この機会に改めて、「働くことの意味」を考えてみたい。

人間は食べるためには働くことが絶対に必要である。ごく少数の高資産保有者を除けば、働いて所得を稼がねばならない。
ドイツの社会学者ウェーバーは資本主義に関して述べる時、プロティスタンティズムの勤勉と倹約を説き、
マルクス・レーニン主義にあっても「働かざる者食うべからず」と説いていることから、働くことはイデオロギーと無関係の倫理である。

働くことは基本的に苦痛なので、働きたくないと思っている人も多いだろう。
しかし、食べるために働かざるをえないのであれば、喜びを感じながら働きたい。

喜びとは、ドイツの哲学者ヘーゲルが呼ぶ「承認欲望」の満たされた時で、自分が他人から認められ、成果が称賛された時である。
上司から命令されたまま仕事をするなら、満足は小さいだろうから、職場ではできるだけ働き手の自由裁量に任せた働き方を用意したいものである。
そして、自ら進んで努力するようになる環境を整えたい。
そういう状況下で上司や他人から褒められるような成果を上げることができれば、これほど至福な事はない。

多分こういう人の所得は高くなるだろう。
公正に測定された人事評価における能力・実績主義は容認されうる。
一つの教訓として、職場の上司は部下のたとえ小さな仕事上の成就であっても褒めてほしい。
部下の意気は上がるのである。

しかし、仕事で失敗することはあるし、世の中の仕事すべてが自己の自由裁量で出来るものではない。
それに、心身ともに疲れを感じるような苦しい仕事も多い。
特に、社会に出たばかりの若者は悩むことが多いかもしれない。
そういう時は再び「人は食べるために働かざるをえない」ということを思い起こして、そこそこしか働かないことがあってもよい。
「余暇を楽しむために働く」と達観しても構わない。

オランダの歴史家、ホイジンガーのいう「遊び」をミックスさせ、
「レジャー」で気晴らしを得られれば気分がすっきりして、翌日は意外と新しい意気込みで勤労に励むことができる。
勤労意欲は工夫次第といえる。 (なお、フランスの哲学者パスカルはこの考え方に対して肯定的ではなかった)

働くことに喜びを感じて一生懸命働く人が人が多くなれば、経済が活性化して経済成長率は高まるであろう。
しかし、そういう人ばかりではなく、ほどほどにしか働かない人がいても社会は悲しむ必要はない。

日本は成熟社会に入っているので、高成長だけが唯一の目的ではない。
ほどほどに働いてそこそこの生活が送れて、自由な時間を過ごせれば、人は幸福なのである。

日本には「清貧の思想」がある。
吉田兼好、鴨長明、良寛などは、出世を望まず俗世間を離れて貧しいながらも文人生活を尊いと考えた。
一般人には望めないことであるが、貧乏を否定しないことは、働くことに関する一つの考え方だ。

働くことの意味は多様である。



皆さんはこの記事を読んでどのように考えられますでしょうか・・・
「なるほどその通りだ」と思う方もおられるでしょうし、「とんでもない、給料を貰うということはそんな甘いもんではない」と思われるかもしれません。

敢えて私の意見を書きますと「どちらでもいい」のです。
「どちらでも」という表現が悪かったら、「どっちも正しいのですから自分の決めた方法でやればいい」となります。

結論は、「その代わり≪結果責任≫は自分で負いなさい」です。
高収入を得た人を羨ましく思わず、自分は逃げた(楽したい)から収入が減るのは当たり前と思わなければなりません。
当然昇進などあり得ない事です!!

最近は危険負担:責任を負わずに、他人のいうままに行動する風潮が見受けられます。
その方が「楽(らく)」なんです。 考えないで済みますし、責任を負わなくて済みます。

しかしそれでいいのでしょうか・・・・10年〜20年経ったときに、
当時教育係を務めた新入社員が管理職(役員)で、自分はその後輩に使われる身(平社員)になっている。

「働くことの意味は多様である」などと云っておられないと思います。


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