2011年8月31日 水曜日 「新・堕落論」より司馬遼太郎の慨嘆

最近になればなるほど、昔司馬遼太郎氏がよく口にしていた言葉を思い出す。

「日本人というのは本当に厄介な国民やなあ。日本人にとっては、《ある種の観念》の方が目の前の現実よりも現実的なんやから」と。
そして今日の日本を危うい者に仕立てたある種の観念とは、「平和愛仰」です。
誰しも平和、安寧を
望まぬ者はいまいが、「平和」というものはただ願っただけで得られるものでは決してない。
その為の代償が必ず要るのだ。それは侵略に備える軍備であり、ある場合には戦争ともなる。

平和を願って成立させるためには、現実的なさまざまな配慮手立てなくしては有り得ない。
 田中美知太郎氏の至言に、
「憲法で平和をいくら唱えてもそれで平和が確立する訳はない。ならば憲法に、台風は日本に来てはならないと記すだけで台風が防げようか」
とあったが、平和にしろ何にしろ、多くの人間が願う理念の実現には現実的な手立ての積み重ねが要るし、
それを脅かしかねぬものが在るとするならその排除、防御が現実の手立てとして必要となる筈だ。


そもそも占領軍がわずかな日数のうちに即製して与えた憲法を拝領したまま65年にわたって一行一句も修正せずにきた国家、民族の資質というのは一体何なんだろうか。
国際法の通念からしても、占領下、占領軍によって作られ付与された憲法を含めいかなる法律も、その国が独立した時は無効なもののはずです。
近代国家として、いわば処女体験だった敗戦の苦痛に耐えかねて、せめて惨敗した戦を「敗戦」ではなしに「終戦」とレトリックすることで
何を糊塗し何を勝ち得たというのだろうか。あれ以後我々を捉えた物は、絶対化したアメリカにあくまで全てを依存する徹底した他力本願、自己放棄でしかなかった。

それは例えば、この現代を導いた近い先祖たちが為し得た近代化の歴史を、教育において子弟に一切教えぬという自己否定と、
いたずらな権利の主張と、それに比べて著しく義務との均衡を欠いたいびつな憲法がそそのかし育んだ、国民のエゴイズム。
そしてそれはいかなる立場も超えて継承されるべき、人間としての価値の基軸を阻害し、
それに代わる価値としての物欲、金銭欲を助長し肉親家族にまで及ぶ人間同士の連帯を阻害してしまったのではないか。
そしてその結果今日の日本人の多くから、自らが属する国家なるものへの意識は淘汰されつつあるのです。

いかなる国家、社会も人間同士の連帯なくして成り立つものではない。
それを書いた国家はいかなる侵犯をも容易に許してしまう。神を含めて他者は、そうした者の在り方をこそ、「堕落」というのです。

 多くの同胞を誘拐拉致し、多量の麻薬を持ちこんで売りさばき、多量の偽ドル札を横行させている、まさに強盗に匹敵する隣国がさらに加えて核兵器を開発して、
それをかざし日本を瞬時にして火の海にもして見せると我々を恫喝(どうかつ)している時、
それを防ぐ日本なりの手立てとして《日本の核開発について議論せざるを得まい》という、与党の政策責任者の中川昭一氏の発言が、
(中川昭一氏は1953年生まれ、自由民主党政権時代の財務大臣としてサミットG7に出席した時の酪酊記者会見で有名になってしまった・・・・・)
非核という理念をかざして非難されるという現象は司馬氏の慨嘆を借りるまでもなく滑稽、愚かとしかいいようない。

ある種の理念の前では自由な現実的議論さえ封じられなくてはならぬというのだろうか。

 そうした非難の前提にはアメリカの核の抑止力への盲信が透けて見えもする。
核戦略の技術は刻一刻変化進歩しているが、日本人の核に関するある理念を表象している、
佐藤内閣時代にいい出された《非核三原則》なるものが踏まえた当時のアメリカの核戦略の抑止力のメカニズムそのものも、
NORAD(ノラド:ノース・アメリカ・エア・デイフェンスNorth American Aerospace Defence Command)と
SAC(ストラッジ・エア・コマンド Strategic Aerospace Command:≪戦略空軍司令部)≫)の仕組みからして当時の日本には全く及ばぬものだった。

沖縄返還の際に言い出された非核三原則なるものの空虚さについて、
驚くことに日本の政治家としては初めて現地を視察した私にNORADの司令官が明言した通り、
アメリカの核戦略に関する警備体制はその名の通り北米大陸のみを対象としたもので日本への攻撃の察知には全く役に立たないものでしかなかった。

 当時の参院議員予算委員会で「核は作らず、持たず、持ちこませず」という三原則は語呂合わせの阿呆陀羅経のようなもので、
作らぬ、持たぬが故に持ちこまさせるべきはないかと質(ただ)した私に佐藤首相は、「これは国是だ」とつっぱねたが、
佐藤氏の兄の安保を相務条約(片務条約ではない)として改定した岸信介首相の所信は、あくまで《核二原則》で、故にも日本への核の持ちこみ是としていた。

 ごく当たり前の話で、従来現実日本に寄港するアメリカの重要艦船が搭載している核兵器を、
寄港の前にどこで外して下ろすかなどという話は聞いたこともないし有り得る話でもありはしない。
 しかし種々技術の進歩で核兵器の運搬手段も変化し、
現に支那海に遊弋しているアメリカ原潜には迎撃困難な強力な巡航ミサイルが搭載されるようになりはしているが、
当のアメリカの国力の減退、孤立化傾向の中でそれでもなおアメリカの日本防衛のための十全なパートナーシップが期待できるか否かは、将来論のあるところに違いない。

前にも記したが、アメリカは多量の人命の喪失に繋がる軍事的コミットメントにはますます躊躇するだろうし、
その一方中国は毛沢東以来の伝統、半ば国是として、千万単位の人命の喪失には無頓着でしかない。

 そうした状況の中でさらに強盗国家の北朝鮮までが核兵器の開発を提言着手している現実に、
「日本が自力でどこまでどう対処すべきか」を論じることそのものを非難するという神経は売国的とすらいえそうだ。

 私がかつてアメリカの核戦略基地を視察した頃、当時の沖縄返還を巡っての非核三原則とアメリカとの繊維交渉のもつれを踏まえて、
毎日新聞が日本の核保有について世論調査を行った結果は、その是非の数値が35対36という際どいものだったのに驚かされた。
仮に、もしあの時代に日本が核の保有に踏み切っていたら、北朝鮮による多くの同胞の誘拐拉致はあり得ただろうか。
あるいはアメリカによる経済での様々な収奪はあり得たか。中国による、領土への侵犯はあり得たか。絶対にあり得なかったはずだ。
現にアメリカが核を保有しているからこそ、
退任したクリントンやカーターでも、彼らが出かけて直接交渉すれば北朝鮮はいつも即座に拘束していたアメリカ人を解放しているではないか。

小泉政権時代の郵政民営化も、日本の膨大な額の郵便貯金を狙ったものと言えようし、さらに日本の風土に似合わぬ市場原理主義などの押しつけもあり得なかったはずです。
あの頃あるテレビ番組でアメリカの若いファンド・マネジャーが、ダイヤモンドを使っての工作作業で高い評価を持つ日本の企業の老社長に
「株主こそが大事にされるべきで、彼等の利益の為に会社の株を売りに出せ」とせっついて老社長が断固としてそれを撥ねつけ、
「君たちの考え方は間違っている。会社は株主の為にあるのではない。まずは働く社員の為にある。そして社会の為にこそある。
株主たちの絵入りの為に我々は働いているのでは決してない。と日本人の価値観にのっとった資本主義原理を説くのを見て快哉を感じたことがある。

なぜ我々はかくも容易に、アメリカという他者の言い分に我々の原則を曲げてまでして容易に従わなくてはならないのだろうか。
核の保有は、この現代ではそれを実際に行使することはまずあり得ぬにしても、
経済、軍事を含めた有効な外交の為に必要な手立て、インフラなのです。無駄と言えば無駄な話だが、国家の繁栄の為に必要な無駄なのだ。
かつて日露戦争での日本海海戦で日本にパーフェクトな勝利をもたらした天才参謀の秋山真之が言ったように理想の戦いとして
「戦わずして勝つ」ためにこそ、核を含めて、強力な軍事力の保有は不可欠の世界となっているのです。

私はかつてNORADとSACの体験事実を踏まえて「非核の神話は壊れたか」という論文を書いたことがある。
その時点では、私は条件つきで日本の核保有は得策ではないとしていたが、
日本に決して好意的とはいえぬ中国の得体の知れぬ核軍備拡張と悪意むき出しの北朝鮮の核開発という現況の中で、
その気になれば簡単に成就可能な日本の核保有の是非について、
《まず議論をしてみる》というのは日本の平和と安全の確保のために当然の姿勢と思われる。

 ちなみに中川氏の提言が、日本の核保有の可能性を熟知したうえで一番恐れている中国の外交上にどんな影響を与えたかを眺めるがいい。
 中川発言は当然のこととして中国の北朝鮮の核保有に関しての姿勢を大きく規制したし、今後も深い影響を与えるだろう。

発言は平和という一つの重要な「現実」を形成していくために、現に強いインパクトをもたらしているということを、平和を願う者たちこそが知るべきなのだ。


民主党政権が、管首相から野田首相に変わりました。

2年前は圧倒的な≪民意≫を得て自由民主党から政権を奪いながら、いまや全くの惨状を呈して国民の信頼を失っています。
今解散総選挙をすれば、野党になりさがることは誰が見ても明らかです。何がそうさせたのか、これは考えなければなりません。

私は民主党は解党して護憲派と現実路線派に分かれるべきだと考えています。

選挙では「国防」は全く人気がありません。国防を訴えても票にならないのです。
何故だか知りませんが「日本は安全なんだ」という意識が染みついていて、それよりも経済政策・福祉・年金が争点になるのです。
みんな≪安全:戦争が起こらなかった≫という事に慣れ切ってしまって、それよりも≪目先のおカネ:見せかけの幸福≫が欲しいのです。

「憲法9条を堅く守って戦争はしない」こればかりです。

感情論で国家の安全は守られるものではありません。例えば国家を家に置き換えてみた時に、

外出する時家の鍵をかけない人はいますか?     自転車に鍵は付けているのでしょう?
財布は落とさないようにいつも注意するのでしょう?     子供が事故に遭わないように心配するのでしょう?

現実には、万引きをする人が一杯います。そして見つかれば堂々と「金を払ったらええんやろ」と開き直るのです。
信号無視をする人はいやらしいほど(情けないほど)たくさんいます。当たり前のこととして信号無視が行われているのです。

そんな現実に対して、「自分自身を守るにはどうあるべきか」なんか考える人はいないでしょう。

当たり前の事として、無意識のうちに避けて(被害に遭わないように)我が身を守ろうとするでしょう。
具体的な方法は各家々で異なるでしょうが、必ずその家毎の決め事があると思うのです。

しかし、国家単位でそれを考える時、答えは≪NO≫なんです・・・・・。

ここでいくら私が嘆いてみても≪変人≫扱いされるか、≪右翼的思想≫の持ち主としてしか見られないでしょう。
真に日本の国防を考えるなら、石原慎太郎氏の言うように≪まず議論≫してみませんか!!

ところで、今朝(2011年8月31日)新聞を読んでいて感じたことがありますので横道に逸れます。

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