2011年8月14日 先日買った「新・堕落論:石原慎太郎著」は今に生きる日本人に必読の一冊だと思います。

この本に書かれているいろんな事(事象)に関する記述について、私は漠然と同じような事(意見)を考えていました。
ただ、自分のことばで的確に表現するにはあまりにも漠然とした意見でしたが、この本を読んである程度具体的に書けると思いましたので、書くことにしました。

ただ、この本「新堕落論」はちょっと読み難いのです。
そこで、いろんな個所を引用しますが、私なりに読みやすく(意味を理解し易く)する意味で、句読点を打ってみました。

意味を分かりやすくしたつもりですが、なんせ「難解な漢字」「フランス語」「英語」が何度も出てくるので、
その都度「カタカナ語辞典」「漢和辞典」「国語辞典」「英和辞典」をひいて意味を調べたり、ネットで調べたりしながら自分なりに理解してきました。
という訳で、全編にわたって意見を(感想を)紹介するのはかなり遅くなると思いますので、自分で新規に購入されて読まれることをお薦めします。


政治は何といっても「社会工学的に最も規制力のある人間の方法」です(意味がよく分かりませんが、そのまま書いています)が、
その政治が、文明を含めて世界の諸々の変化に対応できずにいる中で、日本の社会は明らかに衰弱、変質しつつあります。

かつて明治の初期にこの国(日本)にやってきた欧米人の全ての人が、この国は貧しくはあるが「貧困」はないと評価し、
日本との戦争を覚悟したルーズベルトが依頼して出来た優れた日本人分析論≪菊と刀:ルース・ベネディクト著≫に描かれた、
恥を嫌い、清廉を好み、日本刀に表象される、自己犠牲による献身を美徳として奉じた日本人の姿は、ほとんど消滅してしまいました。

坂口安吾がかつて、当時の世相の変化を踏まえて書いた「堕落論」には、「世相が変わったので、人間が変わったのではない」と書きました。
しかし今の日本の変化にそれが当てはまるものではとてもない。敗戦から65年の歳月を経て、この国では「人間そのものの変化」が露呈してきています。
これは恐らく他の先進国にも途上国にも見られぬ現象に違いない。

それを表象するある出来事に、少なくともこの私は「固唾:かたず」を呑まされました。
東京における男の最高齢者といわれていた老人が、実は30年前に死亡しており、家族はそれを隠し続けていたがそれが露見し、遺体は既に白骨化していました。
その間、家族は死んでいる老父の年金と、これもまた数年前に死亡したかつて教師をしていた老母の遺族年金も受領しつづけていました。

年金を支給していた団体は遺族を不正として告訴し、遺族は逮捕されました。そしてこれを皮切りに、高齢者の不在、行方不明があちこちで数多く露呈してきています。
亡くなった実の親の弔いもせずにそれをひた隠し、家の中に「禁断の部屋」を作り、死んでなお扉一枚を隔てただけの一角に放置された死せる親。
30年という驚異の長期間、白骨と化しながら、いったい何を待ち続けていたのだろうか。これがきっかけで高齢者に関する調べが始まったら、
他のある家族は何をはばかってか「これは我々のプライバシーの問題だ」として、訪れた調査員との面談を拒否してもいる。

映画「楢山節考(ならやまぶしこう)」は、極貧の村での「口減らし」を主題に、極限的貧困の中で村の規約として親を捨てる者、捨てられる親、
それぞれの煩悶と自覚を描いていましたが、極貧という克服しがたい状況の中で集団が生き延びるための不文律に従わざるを得ない人々の悲哀は、鮮烈であり得ました。

しかしこの現代、私(慎太郎)にとってなんともおぞましく衝撃的な出来事を受け止める国民の反応は、年代によってかなり違ってきていると感じられます。
人間が人間である限り、世代や身分立場を超えて継承されるべき「価値の基軸」があるはずですが、今回の出来事はそれを歴然と否定した人間の所作に他ならない。
それは結局、長期に亘って続いてきた「あてがい扶持の平和」のうちに培われてきた≪平和の毒:物欲:金銭欲≫でしかない。

先進国にはそれぞれ、いわば国是ともいうべき、国民の意思を標榜する理想を謳った価値観を表現する言葉があります。
フランスにはかつても革命で謳われた「自由・平等・博愛」です。
アメリカの場合は、ただ「自由」です。だからアメリカにはアメリカンドリームがあるが、同時に著しい格差、差別があり得ます。

ならば、現代の日本でのそれ(国是に相当するもの)はなんだろうか・・・・?
国民が追い求め、政治もそれに迎合して叶え助長している価値、目的とは所詮、国民それぞれの我欲でしかない。
その我欲は分析すれば、金銭欲、物欲、性欲です。この追求にこれほど熱心な国民は世界にいないでしょう。

ちなみに、それを具体的に表象するものは「温泉」「グルメ(美食)」そして「お笑い」だそうです・・・・・日本は本当に平和です(笑)。
しかし、我欲がのさばってくると、これは始末におえません。

死んだ親の弔いもせずに遺体を放置したまま、その年金を詐取(さしゅ)する家族に始まって、高値のブランド製品に憧れてそれ欲しさに売春までする若い女子。
新しい同棲相手の男性に媚びて、前夫との間にできた子供をいびり殺してはばからない若い母親。消費税を含めて、いかなる増税にも反対してごねる国民。
消費税のアップなしに、この国のここまで来てしまった財政がもつ訳がない。
国家予算の国債への依存率をみても、総じて国家の借金(国債発行残高)をみても、現在の日本ならEUには加盟できないでしょう。
まともに家計簿をつけている家庭の奥さんなら、この国の財政の危うさは容易に理解できるでしょうが、しかし消費税アップとなるとたちまち「NO}というのです。

人間はある危機の最中にあっては、いかなる関わりをも超えて「連帯」を計り努めるものです。
半世紀前の戦争の最中にはそうした挿話には事欠きませんでした。というより、生活の感情としてごく自然、当たり前のことだった。
しかし戦後から、世界では未曾有の長い平和がこの国だけは続いた結果、人々の物欲への執着はとどまることがなく、実の親の死をも無視し、
死んでしまった高齢者の葬式を出さないで年金を詐取(さしゅ)してはばからない。それは我々の存在を与えた神仏への冒とくでしかあるまいに。



ここで私の意見をちょっとだけ書きます。
人間は誰でも豊かになりたいし、なろうと努力します。そしてそれが叶えられるようになると「嬉しい」と思うのです。
しかし「嬉しい」を知らない世代になると、その「嬉しい」が「当たり前」だと思うようになります。当たり前が更に進むと「贅沢:ぜいたく」になります。
贅沢を贅沢と思わない世代になると、当たり前が当たり前すぎて「不満足」を覚えるようになってきます
そして最終的に「我儘:わがまま」になります。私は、今の日本はちょうどこの「わがまま:我儘の時代」に来ていると思っています。

例えば身近な例で考えてほしいのですが、自転車の駐輪について皆さんはどう云う風に考えられますか?
ある商業施設では自転車の無法駐輪対策として、2時間無料の駐輪場を用意しています。ですが、駐輪場はガラガラで、施設の入口には相変わらず自転車が居座っています。
いわく、「買い物をして重い荷物を持って駐輪場まで行かれへん」「無料駐輪場があっても遠い」「他の人も停めとうやんか」・・・大体そんなもんです。
また自治体側にしても、商業施設側にしても積極的に取り締まらないのです。
自治体側は「強制できない(根拠法律がない)」し、商業施設側の本音は「あまり厳しく規制すると客が来なくなって売り上げが減る」・・・・大体想像できてしまうのです。

私は「わがまま」という言葉しか知りませんでしたが、石原慎太郎は「我欲:がよく」という言葉を造られています。さすがは作家というか「言い得て妙(見事)」です。

入口を占拠する無法自転車。 2時間無料の駐輪場はガラガラです。



話が中断して申し訳ありません・・・ここから続きを書きます。

こうした忌まわしい事件を総括すれば、所詮は成り立ち得ぬ「高福祉低負担」のもたらした甘えの露呈ともいえそうですが、人によってはそれをすり替え
「都会の恵まれぬ住宅事情のせい」といい、ある者は「歴代政府の無能な経済政策による景気の低迷のせい」とさえ言います。
これに反論するにあたって、新潟県のある町で男が10年間も少女を誘拐して自宅に連れ込んで監禁していた事件を思い出します。
同じ家の一階に住む二人暮らしの母親は、「本当に何も気が付かなかった」のでしょうか?
なんとはなしに「不自然」を感じながら、息子を糾明することもなく無為に過ごしていた。母親は何に臆し「はばかっていた」のか・・・疑問です。

こうした未曽有の現象が証すものは、日本人という民族の本質的な堕落としか言いようがありません。
要するに、戦勝国アメリカの統治下、あてがい扶持の憲法に表象された「いたずらな権利の主張と国防を含めた責任の放棄」という、悪しき傾向が
教育のゆがみに加速され、国民の自我を野放図に育てて弱体化し、その自我が肉親といえども人間相互の関わりを損ない、孤絶化した結果に他なるまい。

それは、ちまちまとした、しかし飽くなき欲望をはぐくんだ「平和の毒」によるものとしか言いようがないでしょう。
私(慎太郎)は敢えて「平和の毒」といいますが、戦争よりも遥かに多くのものを育む平和を否定するものでは決してありません。

しかし我々が敗戦から65年という長きにわたって享受してきた平和は、他国が願い、追求努力してきて獲得した平和とはあくまで異質なものでしかありません。
それは敗戦の後、この国の歴史にとって未曾有の他者として到来したアメリカという為政者(統治者)が、彼等にとっては異形異端な有色人種の造形した日本という
「危険な怪物の解体作業」の代償としてあてがった、いびつな平和でしかありません。

ドイツは敗戦後、連合軍の統治下、国是として二つの事を決めました。
一つは、新生再建のための国家規範となる憲法はドイツ人が決める(作る)。  二つは、戦後のドイツにおける教育は、ドイツ人自身が決めて行う。
しかし、これに対して我々日本人がやったことは、ドイツがやったこととは、正反対のものでしかなかった。

我々(日本人)は、他人(アメリカ)が、彼らの目的遂行の為に造成してあてがった「国家の新しい規範としての憲法」と引き換えに
自らの手による造成に努める事なしに、いや努めることを禁じられた「囲われ者」への「お手当」としての平和を拝受してきたのでしかありません。

平和は「自ら払うさまざまな代償」によって初めて「獲得されるもの」で、何もかもあなた任せという姿勢は真の平和の獲得には繋がり得ない。

この続きはしばらくお待ちください・・・・熟読して書きたいと思います

トップに戻る     HPに戻る

inserted by FC2 system